と束縛と


- 第49話(3) -


 今現在まで連休らしいことを何一つできていないなと、テレビの画面から流れる行楽地の様子を眺めながら、そんなことを思う。未練がましい気持ちからではなく、純然たる事実だ。和彦は濡らしたタオルで顔や首筋に浮いた汗を拭い、ふうっと大きく息を吐きだす。
 連休らしいことどころか、労働を一つ終えたところだった。
 クリニック再開に向けて手抜かりはないはずだが、何か見落としているのではないかと、早朝から目が覚めてベッドの中でゴロゴロしていたのだ。そこに、総和会から仕事の呼び出しがかかった。祖父の葬儀から戻ってきたばかりという和彦の事情を慮り、別の医者に回そうとはしてくれたらしいが、見事に皆、都合がつかなかったという。何も手につかないほど落ち込んでいるわけではないと、苦笑を浮かべて説明しておいたが、どうにも過剰に気遣われている。総和会の中で和彦は、総和会会長のオンナで、統括参謀などという大層な響きの肩書きを手に入れた男が後見人に就いているため、仕方がないともいえる。
 そうして速やかに連れてこられたのは、これまで何度か治療のため利用したことがある雑居ビルの一室だった。
 外国人グループとの〈ささやかな〉トラブルから暴力沙汰になったという男二人を並べて、まとめて治療にあたった。一人は刃物傷だが、もう一人は取っ組み合いの最中にガラスに突っ込んだというだけあって、なかなか派手な傷となっていた。ガラス片は探すのが手間なのだと、虫眼鏡で傷口を覗きながら和彦はぼやかずにはいられなかったが、幸いにも二人とも太い血管や神経は傷ついてはいなかった。相手のグループはどうなったのかと縫合の最中になんとなく尋ねてみると、大した問題にはなりませんよと、どう受け止めていいのか図りかねる答えが返ってきた。
 怪我を負った二人の男は総和会直参の構成員だと、連絡をもらったときに告げられている。最初は直参の意味がわからなかったが、移動の車中で教えてもらったところによると、会長なり幹部会からの推薦によって総和会の一員になったということを示すのだという。推薦とは、盃を交わしたとも言い換えられ、総和会の中ではエリートの扱いとなる。
 そんな男たちがトラブルに巻き込まれたのだ。事態の処理には即総和会が乗り出すことになる。実際、処置室の外は慌ただしかったし、緊迫感は普段以上だった。なぜ自分以外の医者たちが仕事を引き受けなかったのか、察するものがある。こういうとき、基本的に拒否権のない自分のような医者はさぞかし使い勝手がいいだろうと、和彦はひっそりと苦笑を洩らす。
 差し出された紙コップの冷たい水を一気に飲んでから、いつものように処方する薬や、注意などをメモに書き出していく。世話にあたる組員に説明を終えたところで、迎えの車の準備ができたと声がかかった。
 野太い声での礼の言葉を背に受けながら、和彦は古い雑居ビルの一室から出る。タオルはかまわないので持っていってくださいと言われ、遠慮なく片手に掴んだままだ。
「あー、疲れた……」
 エレベーターに乗り込んだところで気が抜けて、素の言葉が出る。同行している加藤と小野寺は、扉の前に立ちはだかってしっかり護衛としての務めを果たしている。
「君らもご苦労なことだな。遊びにも行けずに、ぼくに張り付いて。いやむしろ、連休からズラしたほうが、遊びに行くのは都合がいいのか。そんなに混まないだろうし」
「……この状況で、総和会のヤクザに連休の話題を振ってくる先生に、びっくりですよ」
 ぼそりと応じたのは小野寺だ。そこはかとなく和彦を軽んじている節がある男なので、言葉に揶揄めいた響きがあるのはいつものことといえる。厳めしい見た目に反して律儀で配慮もできる加藤が、非難がましい視線を小野寺に向けたあと、和彦に目礼を寄越してくる。ある意味、バランスの取れたコンビだ。
 一階でエレベーターを降り、エントランスを通り抜けて外に出ようとして、加藤に引き留められる。迎えの車の準備ができたと言われて降りてきたのだが、エントランス前にそれらしい車は停まっておらず、なぜか小野寺だけが外に出て、辺りをきょろきょろと見回している。何かを待っているのは確かなようだ。
 訝しんだ和彦は眉をひそめて隣を見遣る。居心地悪そうに顔をしかめた加藤は、場繋ぎのつもりなのか物騒なことを話し始めた。
「――拳銃が使われかけたようです」
「はあ?」
「さっき佐伯先生が診た患者のことです。相手が拳銃を出したそうで、それで取っ組み合いとなってガラスに……。拳銃はこちらで確保しています」
 それを聞いた瞬間、ゾッとして鳥肌が立った。相手は、総和会の人間を本気で殺すつもりだったのだ。
「はっきりとした目的があってのことか、たまたまそうなったのかは、これから調べるそうです。ただ、外にいる人間に対して、注意するようにと連絡が回っています」
「……あー、だから今さっき、小野寺くんに嫌味っぽく言われたのか」
「あいつはいつでも、あんな話し方です」
 加藤は大まじめな顔で言い切った。
「ということで、念のため護衛シフトを変更させてもらいます。そう、指示があったので」
 表に出ていた小野寺が、こちらに向かって大きく手を動かす。行きましょうと加藤に言われて素直に従う。エントランスを出たところで、見覚えのある4WDが目の前に停まった。ここですべてを察した和彦は本能的に後退ったが、逃げ出すまでには至らない。運転席のウィンドーが下ろされ、ほんの数日前に会ったばかりの南郷が姿を見せる。
「先生、車に乗ってくれ」
 もちろん助手席に。いそいそと小野寺が助手席のドアを開けたので、否も応もなく和彦は乗らざるをえなかった。
「これは……、どういうことですか……」
 ドアのほうに体を寄せながら和彦はきつい視線を向ける。一方の南郷はハンドルを握りながら、今にも鼻歌を歌い出しそうな様子だ。
 突然のことに軽く頭が混乱しているが、それでも和彦は一つ一つ状況を整理する。その間にも、どこに向かっているのか車は走り続けている。背後からぴったりとついてくる車は、南郷の護衛だろう。
「これ?」
「月に一度、本部に顔を出すという決まり事のことです。ぼくは五月一日に出向きましたよね。次は来月に――」
「本部の外で会う分には回数の制限はない、と考えなかったか?」
「それ……、いままでと変わらないってことじゃ……」
「法律やルールの裏をかくことをまず考えるのは、ヤクザの性分だな」
 和彦には珍しく猛烈な抗議を試みたが、南郷はどこ吹く風で、ニヤニヤと笑っている。声を荒らげ慣れていないためすぐに喉が痛くなってきて、和彦はむっつりと唇を引き結ぶ。さらに、南郷の横顔を睨みつける。
 今日の南郷は、なぜかジャージの上下を着ていた。大きくがっしりとした体つきが嫌でも見て取れ、さらに太い金のネックレスが首元からちらちらと覗いており、絵に描いたようなヤクザの風体だ。異様な威圧感を放っているが、和彦はこの男の外見より、内にある熱を孕んだ闇に恐れを抱いているため、わかりやすいヤクザを演じているのだなとしか思わない。
「どこに行くんですか? マンションまで送ってくれる……わけじゃないですよね」
「さすがに学習したか、先生。――いったんホームセンターに寄る」
 なんのためにと聞きたかったが、口を突いて出たのは別の質問だった。
「総和会のほう、今日は大変なんじゃないですか?」
 軽く目を眇めた南郷は、ああ、と声を洩らす。
「いつものことで、大抵の人間は慣れてる。総和会は恐れられているのと同時に、忌避は当然、恨まれてもいる。同業者どもを踏み潰してでかくなってきた組織だからな。体に鉛玉食らって一人前だと嘯く幹部もいるが、俺は嫌だね。死ぬまできれいな体でいたい」
 体に墨を入れている男が言うことだろうかと、和彦は首を傾げる。刺青だけではない。南郷の浅黒い体には、物騒な傷跡がいくつかあることを和彦は知っている。知るに至った状況を思い出し、血の気が引いてくる。
「……今のは冗談で言ったんだからな、先生」
「わかっています。それで、ホームセンターに何しに行くんですか」
 買い物に、と小馬鹿にしたような答えに、和彦は乱暴に息を吐きだして一層ドアに体を寄せる。背後から獣の唸り声のような笑い声が聞こえてきたが、意地でも振り返らなかった。


 総和会本部の〈寮〉で庭ができあがっていく過程を眺めているうちに、自分の手でやりたくなったのだと、ホームセンターで庭木の苗木や園芸用品を選びながら南郷は言った。
 異常に悪目立ちする南郷の後ろをついて回るうちに和彦は既視感に襲われたが、いつだったか御堂について、ホームセンターでの買い物につき合ったことを思い出した。
 水と油のような性質の二人でも、緑を育てたいという同じ目的に至るのだなと妙な感慨を覚えたが、しかし、南郷には立派に打算があったようだ。
「庭が手入れされた家を、人はあまり警戒しない。少なくとも荒れたままにしておくのはよくないな。俺は日曜大工の知識はそれなりにあるが、花木についてはほぼ素人だ。今の時期なら、ホームセンターに並んでる苗木を適当に植えても育つだろう。もちろん、肥料と水を与えて」
「……南郷さん自らやるんですか?」
「これでも俺は几帳面で、何をどこに植えるかぐらいはやっておきたい。なんといっても、俺の隠れ家のことだ」
 後部座席のシートを倒して購入したものを運び入れたところだった。しっかり手伝わされた和彦は、露骨に顔をしかめて南郷を見る。
「それって――」
「一度あんたを連れて行ったことがある場所だ」
 そして再び、和彦を連れて行くつもりらしい。車に乗るよう言われて躊躇するが、助手席のドアを開けて促されると逆らえない。なんとか平然と話している和彦だが、内心では相変わらず南郷は怖いのだ。
 移動の最中も気を張り詰め、うっかりウトウトすることもできない。和彦はじっと外の景色に目を向け続けていて、ふと気がつく。いつの間にか護衛の車が見えなくなっていた。南郷が気づかないはずもないが、何も言わないし、焦った様子もない。先行させたのか、あえて見えない位置まで距離を空けたのか。
 首を傾げ続けているうちに、目的地が見えてきた。
 前回は、夜間であっても見ることができた四角くて黄色い建物は、外壁を塗り替えたらしくありふれたクリーム色となっていた。当然、元保育所だとわかりやすく示していた可愛い動物の絵もなくなっている。変わったのはそれだけではない。重々しい鉄門扉と鎖のセットは相変わらずだが、広々とした庭にあった鉄棒やジャングルジムといった遊具類がなくなっていた。
「片付けたんですか……」
「あれがあると、近所のガキどもが庭に入り込んでこようとして、危ないからな」
 一応隠れ家として維持していくつもりはあるようだ。錆びついてボロボロだった避難路を兼ねた滑り台もなくなっており、砂場らしき場所も、もうわからなくなっている。庭の一角がきれいに整えられ、土が入れられている。そこに苗木を植えるのだろうと見当をつける。
 和彦が庭を見て歩いている間に、南郷は慌ただしく建物の中に入り、一階から二階までの窓を開けて回っている。ついてこいとは言われなかったので、子供たちが建物から庭に出るのに使っていたらしい縁側に腰を下ろす。
 自分たち以外誰もいないという事実を噛み締める。護衛の人間が先に建物に入ったという様子もないため、解散したか、あるいは建物の外で見張らせているか――。
 ひとまず長嶺組には状況と現在地を知らせておこうと、スマートフォンで素早くメッセージを打ち込んで送信する。そこに、大きな足音を立てて南郷が一階に下りてきて、サンダルに履き替えて庭に出てくる。和彦を探すように辺りを見回してから、縁側に目をとめる。なぜか、ニヤリと笑いかけられた。
 作業に入る前に昼食をとると言われ、ここに来る途中の弁当屋で購入した弁当を、縁側に並んで腰かけて食べる。大きな体を維持するのにエネルギーが必要なのか、南郷は焼肉弁当二つに手をつけている。ちなみに和彦は幕の内弁当だ。
 南郷の隣では食事が喉を通らないのではと危惧したが、朝早くから呼び出されて一仕事を終えたあとのため非常に空腹で、問題はなかった。自分の神経の図太さへの呆れは、ペットボトルのお茶と共に飲み下す。
 食後のデザートだと、弁当屋のレジ横で売っていたという小さな大福も勧められるまま食べながら、和彦はぼんやりと庭を眺める。この庭で人が亡くなったという話を唐突に思い出して、無理やり頭から追い払う。
「――もっと萎れているのかと思ったが、案外平気そうだな」
 食後のたばこを吸いながら南郷に言われる。なんのことかと和彦は眉をひそめてから、やっと察した。
「祖父のことでは、いろいろとお気遣いいただいて――」
「ああ、いい。そんなつもりで言ったんじゃない。ただ、葬式から戻ってきて早々に仕事に引っ張り出されて、あんたも大変だと思ったんだ」
 大変、と口中で反芻する。南郷から心労を慮られるというのも、正直なところ妙な感覚だ。これまで、誰よりも和彦に心的にも肉体的にも負担をかけてきたのは、間違いなくこの男なのだ。
「理由があって、母方の実家とぼく個人はつき合いが希薄でしたから……。険悪だったというわけじゃないです。実際、年始に顔を合わせたときは、わだかまりもなかったですし。だから、ショックではあるんです。これからもっと親密につき合っていけると思っていたところだったので」
「そうやって別れを惜しむ気持ちが持てたということは、あんたの祖父君は人格者だったんだろう……。っと、そうなると初七日も向こうに?」
「いえ、連休明けにクリニックを再開しますから、母に任せています。ぼくはできれば、四十九日法要には顔を出したくて……」
「予定が決まったら、総和会に伝えておけばいい。そうすれば、今日みたいにあんたが呼び出されることもないはずだ」
 休憩は終わりだと言って、南郷が立ち上がる。灰皿用として置いてあるのか、古びたボウル皿に吸い殻を入れた。
 南郷は、容赦なく和彦も使い、さっそく車から苗木や肥料を一緒に運び出す。他に、使い道のわからない小道具もあれこれと。
「……植えるのはいいんですが、毎日の水やりとかどうするんですか? 本部から遠いのに、通うわけがないですよね」
「世の中には、便利屋という仕事があるんだ、先生」
「わざわざ、庭木の世話のために雇うんですか?」
「昔、俺がいた組の人間が、足を洗ってやっている会社だ。そういう点で、〈こちら〉の流儀がわかっていて、使いやすい」
 要領が悪い自分ではなく、その人に植え付けの手伝いも頼めばよかったのでは、と和彦の頭に疑問が浮かんだが、口には出さない。あえて虎の尾は踏みたくなかった。南郷の場合、百足だが。
 急にうすら寒さを覚えて身震いした和彦は、南郷に指示されるまま長靴に履き替え、軍手をする。外水道に長いホースを取りつけ、ずるずると引っ張りながら、ポットや鉢に植えられた苗木に水をかけていく。一方の南郷は地面に穴を掘り始める。
 二人は黙々と作業を続ける。着ているものが汚れそうな作業は基本的に南郷がこなし、和彦は水を撒くか、苗木を運ぶ程度の軽作業だ。
 南郷は掘った穴に、腐葉土と堆肥を景気よく入れて混ぜる。腰の入ったシャベル使いに、つい和彦は声をかけていた。
「ほぼ素人とか言ってたわりに、慣れてますよね」
「穴を掘るのは、な。何も植物を植えるためだけじゃないからな」
 すぐに不穏な想像をしてしまい、うっ、と声を洩らす。すると南郷が小馬鹿にするような一瞥を寄越してきた。
「想像力が豊かだな、先生」
「……ぼく、何も言ってませんよ」
「言ってるようなものだ」
 もう少し人の神経を逆撫でしない会話ができないものだろうかと、心の中で抗議する。
「――あんた相手なら、偉そうに踏ん反り返るふりも、格好をつける必要もないから、作業に没頭できていい。隊の連中が一緒だと、隊長の手を汚させるわけにはいかない。自分たちがやるからと言って、シャベルを取り上げられるからな」
「それ遠回しに、ぼくは気が利かないと言ってます?」
「あんたは、それでいいだろ。周りの男たちに甲斐甲斐しく世話されるのが似合ってる。男たちのほうも、そのほうが安心できる。あんたは天性のタラシという役割を、俺は偉そうな隊長という役割を務めてるってだけだ」
 水を含んで土が柔らかくなった苗木をポットから丁寧に抜き出し、根を切らないよう解していく。
「そっちの鉢のほうは、そのままでいい。鉢でしばらく育てて様子を見る」
「はいはい」
 和彦のおぼつかない手つきに待てなくなったのか、土にシャベルを突き立ててから、南郷もポットから苗木を抜き取っていく。
「ああ……。もう一人いたな、天性のタラシという役割を務めてる男が」
 ぽつりと南郷が洩らす。すぐに誰を指しているのか察した和彦が口を開きかけたとき、南郷は再びシャベルを手にする。苗木を植えた箇所に言われるままたっぷりの水を注ぎ、そこに南郷が土をかけて踏み固め、同じ作業を繰り返す。これで終わりではなく、苗木が倒れないよう支柱を立てると、緩く紐を巻いて繋ぎ止めていく。さすがに和彦も要領を掴み、途中から南郷に言われる前に支柱と紐を準備して手渡していく。
 ひととおり作業を終えると、満足げに口元を緩めた南郷が和彦を見る。
「先生、俺には庭いじりの才能もあると思わないか?」
「人使いは荒いですけど、器用だとは思いますよ」
「次は花壇を造るか。レンガを買ってきて、この辺りを囲んで――」
 勝手にやってくださいと、和彦は立ち上がって腰を伸ばす。せめてこちらにもジャージを用意しておいてほしかったと、心の中で苦言を呈していた。
 南郷は、いかに熱心に作業に打ち込んでいたか物語るように、ジャージが泥だらけだった。用具を片付けてから和彦が外水道で手を洗っていると、南郷は縁側に腰掛けて長靴を脱ぎ始める。
「先生、シャワーを浴びてくる。適当に休んでいてくれ」
「……ごゆっくりどうぞ」
 素っ気なく応じた和彦に、南郷が薄い笑みを浮かべる。
「ここの屋上に、ちょっとおもしろいものがある。気が向いたら見てきたらどうだ」
 そんな言葉を残して南郷が行ってしまう。気は向きませんと心の中で応じて一旦は縁側に腰を下ろした和彦だが、屋上まで上がってちらりと見るくらいなら、数分ほどで済むのではないかとふと思ってしまう。
 結局、自分の好奇心の強さを咎めながらも、速やかに行動に移す。子供の足に合わせた低い階段を一段飛ばしで三階に上がって屋上に出ると、途端に強い光の反射に目が眩む。
「これ……」
 何かと思えば、プールに張られた水が陽射しを受けてきらめいていた。組立式のプールだが、幼児なら十人は余裕で遊べそうな大きさで、水はきれいに澄んでいる。雨水が溜まったものではないのは明らかで、つまり、南郷が準備したということになる。プールの傍らには斜めに差したパラソルとビーチチェアがあり、ずいぶんとここで過ごす時間を楽しんでいるようだ。
「何やってるんだ、あの人」
 ぽつりと呟いた和彦は、ビーチチェアに腰掛ける。座り心地は悪くなかった。プールを眺めていると、かつてここで遊んでいたであろう子供たちの姿がありありと想像できる。
 すぐに庭に戻るつもりだったはずが、疲れもあってすっかり腰に根が生えたように動けなくなっていた。
「――ここを買い取ったときに、倉庫に押し込んであったんだ」
 パラソル越しにふいに南郷に話しかけられる。
「プールを出すには早くないですか?」
「入りはしない。ただ、眺めているだけだ。いろいろ考えながら。例えば……、俺ももういい歳で、庭の広い家を建てて、こんなふうにプールを出して我が子に水遊びをさせていた人生もあったかもしれない、とかな」
「……まだ、間に合うんじゃないですか……」
「本当にそう思うか、先生?」
 和彦が返事に詰まると、パラソルの向こうから笑い声が聞こえてくる。そして、正直だな、と言われた。
「俺には家庭も、子を持つのも無理だ。俺は何よりオヤジさんが大事で、長嶺の男たちが大事。自分のことは二の次三の次だ」
「そういう自分が好きなんですね」
 数秒、ヒヤリとするような沈黙が訪れた。
「柔らかな口調で、ドキリとするようなことを言うんだな。だが、まあ、そうだな。俺はそういう――性癖なんだろうな」
 南郷こそ、淡々とした口調でドキリとするようなことを言う。思わずビーチチェアから腰を浮かそうとした和彦は、バランスを崩して転げ落ちそうになる。パラソルを跳ね飛ばした南郷に腕を掴まれ引き留められた。咄嗟のことで南郷も力加減ができなかったらしく、食い込む指が痛くて顔をしかめつつ、和彦はなんとかビーチチェアに座り直す。南郷はパラソルを立て直すと、プールの縁に浅く腰掛けた。和彦の顔がよく見えるよう、わざわざ正面に。
 趣味が悪いと言えたジャージから着替えた南郷は、Tシャツに膝までのハーフパンツ姿となっている。すでに初夏ともいえる陽気では、こちらの格好のほうが相応しいし、妙に似合っていた。
「――……密談がしたくて、ここに連れてきたんですよね?」
 和彦から切り出すと、南郷は皮肉っぽく唇を歪めて笑う。
「俺は、あんたの後見人だ。あくまで総和会の中での呼称ということで、法的根拠なんてまったくない肩書きだが、この世界ではけっこうな力を持つ――と、俺とオヤジさんは考えた」
「ぼくを総和会という組織に雁字搦めにしたいんですよね」
「いい表現ではないな。あんたを守ろうとしているのに。ただこれは、誰にとってもわかりやすい話ではあるんだ。佐伯和彦の立場は、俺がいる限り守られると」
「……長嶺会長ではなく?」
「もちろん、オヤジさんが会長の座にいる限りは、そのとおりだ。しかしそれも、長くて数年だ。俺たちは、そのあとを気にかけている。誰があんたを守る?」
 妙なことを言うと、和彦はため息をつく。
「だったらぼくは、総和会と距離を置くだけです。長嶺組長の姿勢に倣います」
「総和会は、長嶺組長を離さんよ。互助会というのは、そういうものだ。組同士の話じゃない。総和会という組織が生きるために、十一の組を必要としている。長嶺組は特に、総和会の中心部に据えられている。そういう組織に、オヤジさんが造り替えた。なのに、長嶺組長自身は今のところ、総和会の運営に積極的に加わっていない。ちぐはぐな状況だと思わないか?」
「そこでぼくが必要になる。人質のようなものですよね」
 和彦も賢吾も、それは理解しているのだ。現状、受け入れるしかない。
「そのあたりのことに気づいて、あんたを利用しようとする人間がいるかもしれない。害しようとする人間がいるかもしれない。だから俺という後見人が必要になる。もっとわかりやすく言うなら、弾除けだな」
 ゆっくりと目を見開く和彦の前で、南郷は手慰みのようにプールの水に指先を浸す。
 和彦はそっと目を細めて、南郷の様子を観察しつつ、ここまでのやり取りを頭の中で反芻する。今南郷に言われたことは、かつて守光からも言われた。
「平時であれば、総和会の中で権力争いをしても、毎度のことだと構える余裕もあるが、外からちょっかいをかけてくる連中がいないとも限らない」
「……先日言っていた、北辰連合会、ですか?」
「本来ならこの話は、〈寮〉でするつもりだったんだが、あんたがそれどころじゃなくなったからな。今日は、その仕切り直しだ」
 南郷が水から出した手を振り、飛沫が飛ぶ。
「先生、俺と取引をしよう」
 ゾクリとするものを感じて、和彦はビーチチェアから立ち上がる。じっと南郷が見つめてくる。
「一体、何を……」
「長嶺組長の将来を守るために、弾除けとして俺を使え。――総和会の中で、長嶺組長に向けられる敵意や害意を、俺が払いのける。場合によっては叩き潰すということだ。無事に総和会会長の座に就くそのときまで。長嶺会長が手強いからこそ、その長嶺組長の総和会との関わりの薄さが、嫌でも目立つんだ。将来的に、総和会の中心から長嶺組長が外される動きになる恐れがある。俺としては我慢ならないんだ。あの人がナメられるのは」
 変な話なのだ。賢吾自身は総和会という組織を忌避したがっていながら、他者によって排除される形は望ましくない。本人の望むと望まざるとに関わらず、賢吾は総和会に必要不可欠な存在であり続けなければならない。
「それは、長嶺組長に直接言うべきことじゃないですか。ぼくが決めることでは――」
「この場でカマトトぶるのはやめようぜ。あんたが総和会の人質という形を取り続ける限り、長嶺組長は総和会の中で力を持ち続けないといけない。オヤジさんの引退後を見据えてな。あんたもそれをわかっている。力のある存在に寄り添うことで、安全が図られると。あんたが長嶺の男と縁を切らない限り、これは絶対だ」
 南郷がプールの縁からゆらりと立ち上がり、一歩を踏み出す。大きな獣のような男が放つ凄みに圧されて和彦は後退ったが、ビーチチェアに当たってよろめく。さきほどと同じく、南郷に腕を掴まれ支えられた。
「あんたは本当に危なっかしい。側に付き添う男は多ければ多いほどいいな」
 自分もそこに加えろと南郷は言っていた。長嶺の男を――賢吾を守るために。
「一言、長嶺組長を守れと、俺に頼めばいい。これは、長嶺組長の意思は関係ない。あんたが頼めば、俺は従うことができる。大蛇の化身のような男に、俺の命が使える」
「……死にたいんですか?」
 南郷は鼻先で笑った。
「言ったろ、これが俺の性癖だと。惚れた男にボロ雑巾のように使い潰されたい。だが、命を安売りするつもりもない。俺の長寿のために、長嶺組長にはしっかり長生きしてもらわないとな」
 皮肉げに唇を歪める南郷を見ていてふと、守光が語っていた言葉を思い出す。
『――そして賢吾は知るだろう。ある男の、人生を賭けた献身をな』
 あのときすでに、和彦はぼんやりと南郷であろうと予測はしていたが、同時に、なぜとも思っていた。
 今、南郷自身が、理由を口にしたのだ。
「要は……マゾなんですね、南郷さん。長嶺組長限定で」
 これまでされたことへの意趣返しのつもりはなかったが、口を突いて出た言葉に、南郷は苦笑いに近い表情を浮かべた。ただし一瞬だ。次の瞬間には、獲物を狙う狡猾な光が両目に浮かんでいた。
「使い潰されたいのは、長嶺組長に対してだけ。先生、あんたには対しては――」
 逆の気持ちを抱いている。そうはっきりと南郷に告げられ、和彦は怖気立つ。反射的に立ち位置を変えて南郷から距離を取ろうとしたが、一歩踏み出されて動揺する。逃げ場を求めてギリギリまでプールに近づく。
「先生、さっき言っただろう。あんたは危なっかしい。こっちに来い」
「子供じゃないんですから、平気です」
「本当に?」
 意味ありげに問いかけてきた南郷がふいに片手を突き出し、トンッと軽く胸を押された。ふらついた和彦がプールの縁に掴まろうとして、手が空を切る。子供用のプールの高さを見誤ったのだ。そのままひっくり返るようにしてプールの中に倒れ込む。
 溺れると、慌てるまでもなかった。プールの水深はごく浅く、簡単に手がつき体を起こせる。ただ、全身がずぶ濡れとなっていた。呆然とする和彦に、ぬけぬけと南郷が言い放つ。
「だから言っただろう。あんたは危なっかしいと」


 ざっとシャワーを浴びて出た和彦は、借りたTシャツと七分丈パンツのサイズの大きさを気にしながら、二階へと上がる。勝手知ったるというわけではないが、いまさら遠慮しても仕方がない。前回、自分が宿泊に使った部屋に入ると、ずいぶん片付いていた。子供用のテーブルやイス、絵本が埃を被っていた棚などがなくなって、使えるスペースが広がっている。なぜかオルガンやロッカーはそのまま。どんな心境の変化があったのか、折り畳みベッドに代わって、大きなベッドが窓の近くに置いてある。
 サイドテーブルの代用らしく、ひっくり返したプラスチック製のコンテナがベッドの傍らにあり、その上にタブレットと、一週間近く前のスポーツ新聞が。一応寝泊まりに使っているようだ。
〈寮〉の立派な私室とはあまりに様子が違うが、これもまた南郷の一面だろう。部屋の主の姿が見えないのをいいことに、広くなった室内を歩き回る。殺風景にもほどがあり、庭の手入れに対する熱意を、もう少し室内のほうにも向けたらどうかと、余計なお世話ながら考えていた。
 開け放たれた窓から爽やかな風が吹き込んでくる。陽射しもたっぷり降り注いでおり、これなら庭に干した服もすぐに乾くはずだ。そっと目を細めた和彦は、辺りを見回しイスを探してから、仕方なくベッドの端に腰を下ろす。
 首にかけたタオルで濡れた髪を雑に拭いていて、スマートフォンを手元に持ってきていないことを思い出した。庭での作業中に邪魔になり、下駄箱の上に置いたのだ。一緒にプールに落ちなくて済んだので、結果としてよかった。
「――先生、何か飲むか?」
 ブラックコーヒーの缶を手に、南郷も部屋にやってくる。和彦は露骨に顔を背けた。
「帰るまで話しかけないでください。……さっきプールに突き落とされたこと、怒ってるんですからね」
「怒ってる、か。お可愛いことだな」
 反省してくださいと呟くと、まったく悪びれることなく南郷が、コンテナに缶コーヒーを置きながら応じる。
「あんたが鈍臭いのが悪い」
「というか、プールを出すのが早いんですよ。まだ5月ですよ」
「そこは怒るところじゃないだろ」
 前触れもなかった。和彦は突然ベッドに押さえつけられ、南郷がのしかかってくる。抵抗はしなかった。こうなると、この場所に連れ込まれた時点で覚悟はしていた。ただ、予想以上に南郷がいろいろと話してくれたため、このまま帰れるかもしれないと淡い期待も抱いていたのだ。
「先生、俺と取引をしよう」
「さっき聞きました」
「返事をまだもらってない。俺と手を組むかどうかの。自分のためじゃない。〈俺たち〉の長嶺賢吾のために、どうするのが最善か、あんたはわかるはずだ」
 本当に嫌な男だと、和彦は内心で吐き捨てる。和彦に対して効果的な物言いを、南郷はしっかりと理解している。
「……ぼくはいまさら、長嶺の男たちと離れるつもりはありません。こういう世界に引きずり込んだ責任を、最後まで取ってもらうつもりなんで」
「あんたもなかなか難儀な性質(たち)だな」
 どういう意味だと、視線だけで問いかける。
「素直じゃない。吹けば飛ぶような建前を口にするのは、自分は極道とは違う人種だというささやかなアピールか? それとも俺に、長嶺組長から離れられないぐらいベタ惚れだと知られるのが嫌か?」
 和彦はじっと南郷を見上げる。最初は皮肉げな笑みを浮かべていた南郷だが、次第に表情を消し、食い入るような眼差しで応えてくる。その眼差しに、悔しいが和彦は感化された。
「本当に長嶺組長を――賢吾を守ってくれるんですね?」
「俺の義理堅さと一途さは信用してくれ、先生」
 ついでに、と南郷は続ける。
「後見人らしくあんたのことも守ってやろう。あんたが弱ったり、いなくなると、長嶺の男たちが悲しむからな。……忌々しいが」
 会話はここまでだと言わんばかりに、着込んだばかりのTシャツを無造作に脱がされる。無遠慮な視線にさらされて嫌悪感に肌が粟立つが、それでも和彦は南郷から視線を逸らさない。自分だけのためなら、押さえ込まれるにしても抵抗はできるのだ。しかし今は、賢吾のために身を張っていた。自分でも愚かだとは思うが、南郷に対して退くわけにはいかない。
「弱いくせに強情だ」
「余計な……お世話です」
 和彦を辱めるためなのか、さらにパンツも引き下ろされる。南郷は歯を剥き出すようにして笑った。
「そういえば、下着を貸してなかったな」
「……わざとかと思ってました」
 あっという間に裸に剥かれてから、両足を開かれる。相手が南郷ということもあり、意識しなくとも体が強張る。しかし南郷は、和彦のそんな反応すら楽しむつもりらしく、いきなり敏感なものを掴まれた。うっと声が洩れる。
 和彦は顔を背けてきつく目を閉じる。さっさと終わってほしいと願うせいか、体は南郷の雑な愛撫にまったく馴染まず、違和感だけを訴えてくる。意外な辛抱強さで和彦のものを弄り続けていた南郷だが、苦笑交じりの呟きが和彦の耳に届いた。
「本当に、強情だ……」
 いきなり内奥の入り口をまさぐられて息が詰まった。唾液で湿らせたらしい指で擦られ、無意識に腰が逃げそうになるが、容赦なく中に侵入される。
「うっ、うっ……」
 内奥に収まった二本の太い指が蠢き、唾液を擦り込むように襞と粘膜を刺激する。本能的に締め付けた指が折り曲げられ、内奥を押し広げ、肉を解していく。感じやすい部分を丹念に指の腹で押し上げられ、じわりと和彦の下腹部が痺れる。次第に両足から力が抜けていくのが、自分でもわかった。
 内奥から指が一度引き抜かれ、柔らかな膨らみをてのひらで包み込まれる。痛みを予期して喉を引き攣らせたものの、和彦の腰は誘うように揺れていた。
「弱いところだらけだな、先生」
 南郷の声が愉悦を含む。じっくりと柔らかな膨らみを揉まれながら、巧みに弱みを指先で弄ばれる。ビクビクと腰を震わせ、和彦はなんとか南郷の手から逃れようと足掻くが、それすら南郷を愉しませているだけだろう。
「先生、目を開けておかないと、俺がとんでもないことをするかもしれないぞ」
 揶揄うように声をかけられ、ハッとして目を開く。南郷は薄い笑みを浮かべて、怯えを見せた和彦を見下ろしていた。
 いつの間にか緩く身を起こしていたものを再び南郷に掴まれ、根本から扱かれる。さらに内奥に三本に増やした指を挿入され、中からじっくりと肉を嬲られる。なんとか理性を保とうとするが、冷静な南郷の眼差しに心が掻き乱され、体は快感へと追い立てられる。陽射しが差し込んでくるのもよくなかった。隠すものがない状況で、何もかもつぶさに観察されていると、嫌でも実感する。
 南郷の手の動きに合わせて、湿った音が耳元に届くようになる。先端から滲み出る透明なしずくを、厚みのあるてのひらを使って南郷が欲望に塗り込めているのだ。内奥で指が蠢くたびに、はしたなく先端からしずくが垂れる。
「んうっ」
 内奥にぐっと指を突き入れられ、強く圧迫される。一瞬目の前が真っ白に染まったかと思ったときには、和彦は精を噴き上げ達していた。さらに精を搾り取るように南郷に欲望を扱かれ、堪らず和彦は小さく嬌声を上げて見悶えていた。
 下腹部に垂れた白濁とした精を、南郷が満足げに指で掬い取る。
「やっぱり、快感には脆いな」
 息を喘がせる和彦を見下ろしながら南郷は、汗に濡れたTシャツを脱ぎ捨てた。途端に露わになる、頑強な筋肉に覆われた肉体と、右脇腹から下腹部に彫られた百足の刺青。この先何度見ても慣れないであろう百足の生々しさにゾッとする。
〈これ〉は、陽射しの下にいていい存在ではない――。
 本能に訴えてくるものがあり、和彦は上体を起こしてベッドの端に逃れようとしたが、簡単に追い詰められて唇を塞がれた。違和感しかない口づけに呻き声を洩らし、肩を押し退けようとするが、もちろんこんなことでは南郷はびくともしない。後頭部を押さえつけられ、口腔に容赦なく舌をねじ込まれた。
 粘膜を舐られ、舌の裏までまさぐられているうちに、唇の端から唾液が垂れ落ちる。和彦が息苦しさに喘いでいると、南郷の目元がうっすらと笑みを湛える。その頃には和彦の抵抗は緩慢なものとなり、易々とベッドの上に押さえつけられていた。のしかかってくる南郷の体は熱くなり、すでに汗が肌を滴っていた。引き締まった腹部をぐっと押し付けられる。和彦が意識するのは、百足の刺青のことだ。南郷の肌を伝って、自分の肌へと移動してくるのではないかと、ありえない想像をしてゾクゾクと体の奥が疼いた。
 和彦の変化を読み取ったように、南郷が本格的に嬲りにかかる。和彦の肌に唇を押し当て始めたのだ。うろたえて半身を捩ろうとして、いきなり胸の突起を口腔に含まれ、きつく吸い上げられる。痛みを感じて声を洩らすと、今度は機嫌を取るように舌先でくすぐられ、甘噛みされた。
 ごつごつとしたてのひらに体中をまさぐられながら、唇と舌による愛撫を加えられる。自分が触れてない場所があるのは許さないとばかりに、傲慢に、和彦のすべてを暴くように。
「いっ……」
 内腿に軽く歯を立てられ、このまま肉を食い千切られるのではないかと思って体が強張る。しかし怯えに反して、和彦の欲望は再び身を起こしていた。
「あんたも人のことが言えないな」
 和彦のものを軽く指で弾いて南郷が笑い声を洩らす。屈辱と羞恥で唇を噛むと、顔を上げた南郷に唇を塞がれていた。押し込まれた舌を通して唾液を流し込まれ、吐き出すことも叶わず嚥下する。あとはなし崩しに舌を絡め取られていた。
 すでに充溢した大きさとなった南郷のものが、露骨な動きで和彦の下腹部に擦りつけられる。
「……ここであんたを一方的に抱き潰してもいいんだが、それじゃあ、前回と同じだ。新たな関係となるのに、それはあまりに芸がない」
 ようやく唇を離してから、南郷が白々しい言い回しをする。濃厚な口づけに半ば強引に酔わされていた和彦は、野獣の権化のような男を無防備に見上げる。何がおかしかったのか、南郷は口元を緩めた。
「あんたは、俺の〈オンナ〉にはしない。長嶺賢吾を挟んで利害が一致しているだけの関係がいい」
「それは……、そうです」
 互いに情愛は抱いてないと、目で確認し合う。すると突然、南郷が傍らに仰臥して、視線だけを和彦に向けてきた。
「――俺の提案に乗るなら、俺の上に乗ってくれ」
 南郷が何を言いたいのかすぐには理解しかねたが、片手を取られ、熱い欲望を触れさせられて嫌でも察した。なぜか、手を振り払うことはできなかった。促すように手を引かれ、腰を抱き寄せられて、南郷の上に倒れ込む。
「あんたは淫奔な人間だ。嫌いな男だろうが、体が欲しがりゃ、このまま俺の上に跨がれるはずだ」
 反射的に南郷の肩を殴りつけたが、それを南郷本人に嘲笑われる。
「ここで顔を殴れないのが、お行儀のよさだな。――さあ、どうする?」
 和彦が提案に乗らなかったところで、南郷が総和会内で賢吾を守ることに変わりはないだろう。そこに和彦の意思は関係なく、存在すら必要とされていない。なのにあえて、南郷が和彦を関わらせようとするのは――。
「共犯……」
「人聞きが悪い。協力と言ってくれ。俺とあんたは、手を組むんだ。あんた自身に力はなくても、取り巻く人脈は絶大だ。いつか、何かしらの切り札になる可能性がある。それまでは、あんたは長嶺組長に大事に愛されてればいい。そして俺は、そんなあんたたちに尽くす。末永くな」
 悪くない話だろうと、南郷が囁く。
 正直和彦にとって、賢吾が将来、総和会会長の座に就くとどうかはさほど重要ではなかった。ただ、そこに至るまでの道が、そこに至ってからの道が、少しでも賢吾にとって安全であればいいとは強く願っている。
 この男は有用な弾除けだ。和彦の強い視線を受け、南郷の顔から笑みが消える。
「……いい顔つきになったな。俺の話に、長嶺組長のオンナとして火がついたか?」
 頭で考えるより先に、体が動いていた。
 南郷の腰に自ら乗り上がると、手探りで位置を確かめる。腰を浮かせて準備をしながら、恥ずかしいという気持ちすら消えていた。いっそのこと南郷の興奮が冷めてくれたらとも思ったが、蕩けた内奥の入り口に押し当てた欲望は、高ぶったままだ。
「ふっ……」
 和彦は慎重に腰を下ろしながら、内奥に逞しい欲望を少しずつ呑み込んでいく。自分の意思で、南郷を受け入れているのだ。
「絶対に、〈賢吾〉を守ってくださいね。……あなたの命を使って」
 下腹部からせり上がっていく苦しさに喘ぎながら、和彦は呟く。緩く腰を突き上げられ、ふらついて南郷の胸に手を突いていた。腰を掴まれ、それを合図に行為が熱を帯びていく。
「んあっ、はあぁ――……」
 時間をかけて南郷のものを内奥深くまで呑み込み、息を吐き出す。腹の中にふてぶてしい熱の塊があり、脈打っている。深く繋がってしまうと嫌でも認識せざるをえず、今になって羞恥と自己嫌悪の波が和彦に押し寄せてくる。
 ここで冷静になってはいけないと、自分に言い聞かせる。今この場で和彦は、南郷を食らわなければならないのだ。
「あんたは考えてることが表情に出すぎだ。悲壮さと動揺。羞恥に動揺……、あとは、発情」
 南郷の揶揄に対して睨みつけると、腰を乱暴に突き上げられる。短く悲鳴を上げて前のめりとなると、今度は円を描くように内奥を掻き回される。ビクビクと全身をわななかせ、傍若無人に動く南郷の欲望をきつく締め付ける。
「あっ……ん」
 緩やかに腰を前後に揺さぶられ、和彦は背をしならせる。体の奥深くをぐうっと突かれて、痺れるような感覚が広がる。南郷が大きく息を吐き出し、尻の肉を強く鷲掴んでくる。
 中からの強い刺激によって和彦のものは再び熱くなり、反り返っていた。先端からとろとろと透明なしずくが垂れ、凝視する南郷の視線を意識する。繋がって擦れ合っている部分を指の腹で擦られて、呻き声を洩らす。震える欲望を軽く扱かれてから、じっとりと熱を帯びた両てのひらが、汗に濡れた和彦の肌をまさぐり始める。
 南郷の腰の上で、和彦は身をくねらせ、上擦った声を上げる。ふと、南郷の胸に突いた手に視線を落とした拍子に、百足も視界に入った。
 ほとんど無意識の行動だった。和彦は、艶々とした黒く長い体と、赤色の頭と無数の足を持つ存在をおぞましいと感じながらも、てのひらを這わせて撫でていた。その途端、内奥にある欲望がさらに大きくなった気がした。
「恍惚、だな。あんたの今の表情は」
 悠然と南郷が上体を起こし、和彦はがっちりと両腕の中に閉じ込められる。有無を言わせず唇を塞がれて口腔を舌で、内奥は欲望で犯される。和彦に逃れようはなかった。南郷に思うがままに振り回され、肉の悦びを引きずり出される。襞と粘膜を強く擦り上げられるたびに、震えるような快感が背筋を駆け抜けていく。内奥が淫らな蠕動を繰り返しているのは自分でもわかり、息も絶え絶えになりながら南郷の背に強く爪を立てていた。
 間近で見る南郷の目は、愉悦と加虐性と、それを上回る無遠慮な好奇を湛えていた。こんなときでも和彦を――長嶺賢吾のオンナを観察している。
 ゾッとしながらも、流し込まれる唾液を受け入れ、内奥深くに注ぎ込まれる精を受け止める。同時に和彦自身、精を噴き上げて南郷の百足を汚していた。
「――先生、今回は、よかっただろ?」
 ようやく唇を離したところで南郷に問われる。乱れた呼吸の下、和彦は精一杯の皮肉で応じた。
「南郷さんこそ、今回は楽しめたでしょう……」
 一瞬真顔となったあと、南郷は鼻先で笑う。
「ああ、忌々しいが、よかった。やっぱり力ずくはよくないな。あんたが乗り気になってくれないと」
「乗り気って――……」
 どうしてこうなったかと抗弁しようとしたが、まだ内奥に収まったままの南郷のものが蠢いて息を詰める。まだ力を失っていないのだ。
 先生、と低く囁かれて、唇を吸われる。この日初めて、南郷と舌を絡め合う口づけを交わしていた。誘い込まれるままに南郷の口腔に舌を侵入させると、すかさず痛いほど強く吸われる。そのまま和彦の体はベッドに押さえつけられ、覆い被さってきた南郷が緩やかに腰を動かし始めた。


「寝るなよ、先生」
 強烈な脱力感に抗えず、意識を半ば手放していた和彦は、横向きにした体を揺さぶられてハッとする。全身を包み込む温かさ――というより、むしろ暑いぐらいの感触に、少し混乱する。
 背にぴったりと重なっているのは、南郷の胸板だった。腰に回されているのは南郷の腕で、耳元に押し当てられているのは南郷の唇。一つ一つ感触を辿っていきながら、再び和彦の意識は遠のきかけたが、両足の間に手が差し込まれたことでやっと覚醒した。
 南郷は執拗だった。和彦から限界まで精を搾り取りながら、全身に舌と唇を這わせてきた。和彦に興味があるというより、そうすることで賢吾との同化を試みていたのではないかと、行為の最中ぼんやりと考えていた。
「んっ……」
 当然の権利のように柔らかな膨らみをもさぐられ、手荒く揉みしだかれる。下肢の感覚はだいぶ鈍くなっているが、それでも何も感じないわけではない。ビクビクと腰を震わせると、獣の息遣いが耳にかかった。
「あんたが教えてくれたんだ。長嶺組長は、こうするのが好きだと」
「教えたんじゃなくて、あなたに強引に聞き出されたんです……」
「同じようなもんだ」
 明確に違うだろうと思ったが、指摘する気力も体力も惜しい。
 尻の間に硬い感触が擦りつけられる。さすがにもう無理だと言おうとしたが、緩んだままの内奥の入り口を易々とこじ開けて、南郷の欲望が挿入される。ぐちゅりと音を立て、中に残っていた精が溢れ出してきたが、南郷にとってはいい潤滑剤だろう。軽く腰を揺すられながら内奥深くを突き上げられ、和彦は呻き声を洩らす。苦しさもあるが、襞と粘膜を強く擦り上げられると、じわじわと快感が滲み出てくる。
「――あと一時間ほどしたら、ここを出る。晩メシにちょうどいい時間だ。帰りに、どこか店に入ろう。肉がいいな。分厚いステーキが食いたい」
 下腹部を大きなてのひらで撫でられてから、ぐっと押さえつけられる。内奥でふてぶてしく動くものを反射的に締め付け、和彦は短く嬌声を上げる。
 繋がったまま獣のように這わされると、背後から腰を掴まれて揺すられる。内奥深くを抉るように突かれて、和彦は熱い吐息をこぼして全身をわななかせる。単調な律動を繰り返しながら、前触れもなく南郷が切り出した。
「先生、俺からの本気の忠告だ」
 思考がすぐには切り替えられず、返事ができない。すると南郷が、妙に優しい手つきで乱れた髪を撫でてきた。薄ら寒さを覚えた和彦は小さく身震いする。
「なん、です……?」
「先日は釘を刺し足りなかったから、はっきりと言わせてもらう。――あんたは御堂とそこそこ親しいようだが、いいか? 奴を信用するな」
 なぜここで御堂の名が出るのか。和彦は不自由な姿勢のまま首を動かそうとしたが、南郷が腰を突き上げたので断念する。
「長嶺組長と御堂のつき合いもあるから、俺も口うるさくするつもりはなかったが、状況は簡単に変わる」
 衝撃は受けなかった。南郷が名を出した賢吾も、古くからのつき合いとはいえ、微妙に御堂に対して含みを残した物言いをしていた。それもつい最近。
 本部で南郷から渡されたファイルの内容を思い返す。伊勢崎龍造に伊勢崎組、北辰連合会といった単語が目まぐるしく頭の中を駆け巡っていると、南郷に腰を抱え込まれ、より深く内奥に欲望を押し込まれる。再び柔らかな膨らみを弄ばれ、和彦は間欠的に声を上げる。
「なあ、先生、御堂と寝たのか?」
 内奥にある南郷のものは間違いなく興奮しているが、問いかけてきた声はひどく冷めていた。どういう表情をしているのか、想像するのもおそろしくて、和彦はシーツに顔を埋めたまま首を横に振る。
 繋がりを解かれて体をひっくり返されると、両足を抱えられた。じっと見下ろしてくる南郷の眼差しの冷酷さに、この男は本当に長嶺の男しか見えていないのだなと、妙に感心してしまう。だからこそ、打算含みの関係が和彦と築けるのかもしれない。
 すっかり形が馴染んだ南郷のものをすぐにまた内奥に受け入れる。見下ろされながら、力を失っている和彦の欲望は手荒く扱かれ、胸を揉まれて乱暴に突起を摘まみ上げられる。もう一度、南郷から同じことを聞かれた。
「……どうして、あなたが気にするんです」
「オンナがオンナを取り込むのに、それもありかと思ってな」
 和彦は体を揺さぶられながら、南郷の気持ちになって今の問いかけの意味を推察する。
 南郷が、硬く凝った胸の突起を口に含み、熱い舌で舐ってくる。されるに任せながら、乱れそうになる思考をなんとか保とうと努める。
「ぼくが和泉家に行っている間に、何か、あったんですか? 御堂さんと……」
 緩やかに内奥を突かれ、息を喘がせて和彦は問いかける。どうやら正解だったらしい。南郷はわずかに唇を歪めた。大したことじゃないと言われたが、少なくとも南郷が気にかける程度のことはあったのだ。
「あいつは見た目は雰囲気のある美形だが、中身はえげつない極道だ。ほぼ堅気のあんたじゃ、簡単に手玉に取られる。特に最近の状況だと、どんな面倒に巻き込まれるかわかったもんじゃない」
 第二遊撃隊の中で、この認識は共有されているのかもしれない。ほんの数日前に、中嶋から似たような忠告をされている。
「正直、鉛玉ぶち込まれかけたうちの幹部より、あんたのほうが心配だ。弱いうえに、警戒心が薄いからな」
「ええ、南郷さんに簡単に連れ去られるぐらいですから。……これ、皮肉ですからね?」
「この状況で命知らずだな。やっぱりあんたは危なっかしい」
 弄り続ける南郷の手の中で、反応を見せ始めた自分自身に呆れる。強引に欲情を駆り立てられ、搾り取られてなお、この男の愛撫に応えるのかと。
 体の反応に感情が引きずられているようで、本能的に恐れを抱いて南郷の手を押し退けようとしたが、反対に掴まれた手で百足に触れさせられた。内奥に呑み込んだままの南郷の欲望をきつく締め付ける。
「強引でもなんでも、体を繋ぐと絆される人間だろう、あんたは。それが危うい。相手があんたに絆されるとは限らないからな」
 丹念に内奥深くを突き上げられながら、南郷の忠告を聞かされる。『相手』とは南郷自身のことを語っているように思わせて、御堂という人間のことを語っているようでもあり、肉の愉悦に浸りながら和彦は、なんとか南郷の表情から読み取ろうとする。
 しかし南郷の動きによって意識はあっさり舞い上がり、目も開けていられなくなる。閉じた瞼の裏で極彩色が舞い、頭の中が真っ白に染まったとき、和彦は自分が放埓に声を上げていたのはわかったが、それを恥ずかしいと感じる余裕も失っていた。
 何度目かの南郷の精を体の奥で受け止めたとき、和彦が吐き出したわずかな精も、南郷の大きなてのひらに受け止められていた。
「あぁっ……。はあ、は……ん、んうっ」
 誰にも聞かせられない密談がようやく終わったのだと察し、和彦はそっと目を開ける。このとき見た満足げな南郷の表情が、和彦にはとても印象だった。









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