和泉家の屋敷での家族揃っての朝食は、ひたすら静かなものだった。和彦は昆布入りのおにぎりを黙々と食べる。正面に座る俊哉は一見いつも通りに見えるが、少し離れた席につく綾香のほうは違う。憔悴しきった様子で、食欲がないのか味噌汁を一口、二口啜っただけで、箸はとまったままだ。
和彦は、昨夜はほとんど夕食が喉を通らなかったが、現金なもので今朝は、大皿にのる大量のおにぎりを見た途端に空腹を自覚した。他の器にはきんぴらごぼうや、牛肉のしぐれ煮、小松菜の卵炒め、ポテトサラダといった総菜が盛られており、好きなものを自分で取り分ける形式になっている。夕方からの通夜の準備で朝から慌ただしくしているため、手が空いている人から朝食をとるよう言われていた。今のところ食堂には和彦たち家族三人の姿しかない。
だからといって家族だけの会話があるわけではなく、俊哉は持ち込んだスマートフォンが点滅するたびに確認している。忙しい身ながら、少なくとも二泊する予定を立てる程度には、和泉家を尊重しているとも言える。
気を使い続けると沈黙したままになるため、和彦はおずおずと口を開く。
「……父さん、兄さんから連絡は……?」
「夜中にあった。やはり、仕事で身動きが取れないそうだ。子供じゃないんだ。来られるなら来る。無理なら来ない。それぐらい自分で判断するだろう」
俊哉ですらこちらに来ている中、英俊はもしかすると自分と顔を合わせたくないのだろうかと、ふと和彦は考える。わずかながら罪悪感を覚えなくもないが、たった今俊哉から言われたように、判断するのは英俊だ。
食堂の窓の外で、葬儀会社のスタッフたちが慌ただしく何かを運び込んでいる姿がちらちらと映る。通夜はこの屋敷で、葬儀は近所にある和泉家の菩提寺で執り行うことになっている。年明けに、和彦が紗香の墓参りのため訪ねた寺だ。生前の正時の希望だそうだ。
ガタッとイスを引く音がする。振り返ると、綾香が立ち上がったところだった。
「少し……、部屋で休むわね。昨夜は全然眠れなくて」
「……食器はぼくが片付けておくよ」
頷いた綾香が食堂をあとにする。この間、俊哉と言葉どころか、視線すら交わさなかった。
「ここに来ると、嫌でも直視せざるをえないんだろう。母さんは」
ふいに俊哉に言われ、一瞬虚をつかれた和彦は目を丸くする。まさか、俊哉から話しかけられるとは思っていなかった。
「直視……」
「正時さんのこと、聡子さんのこと、紗香のこと。それに、家のこと」
それは決して他人事ではない。和彦にも自覚はあるが、俊哉のほうも物言いたげな視線を向けてくる。
「昨夜少し話したが、聡子さんは当然、ここを離れるつもりはないそうだ。だとしたら、身内の人間が気を配る必要がある。わたしたち家族と、〈彼〉と――」
このとき食堂に人が入ってくる気配がした。父子が同時に視線を向けた先に立っていたのは、九鬼だ。九鬼にとっても二人がいたのは意外だったのか、軽く眉を動かしたあと微笑を浮かべた。
「朝食をとりに来ました。すぐに出ていきますんで」
「いえ、大丈夫ですから、座ってください」
九鬼はちらりと俊哉を見てから、緩く首を振る。二人分の朝食を載せた盆を抱えてあっという間に食堂を出ていった。
「――あの男は、信頼できるのか」
そう言った俊哉の眼差しは鋭い。
「おばあ様は信頼している。……父さんは、いままで九鬼さんと会ったことはなかったの?」
「ずいぶん前から、和泉の家のために働いている人間はいた。会社の業務ではなく、夫妻の御用聞き的な。わたしが長嶺を使ったことで、必要性と有用性を感じて荒事専門の人間を雇ったと考えれば不思議ではない。ただ――何年か前にわたしが会ったのは、もっと年配の男だった。小柄で、鋭い印象の。あの男は初めて見た」
もしかすると条件に合う男たちを招き入れては、役目を引き継がせているのかもしれない。そして今は、九鬼の代。
「まあ、聡子さんが出入りを許しているのなら、わたしがとやかく言う権利はないな」
俊哉はスマートフォンにちらりと視線を落としてから、とうとう電源を切ってしまう。目頭を押さえる姿を見て、和彦は声をかけずにはいられなかった。
「父さんも少し休んだら。おばあ様の側にはぼくがついているから」
「そうだな。お前と聡子さんは、相性がいい」
なんと応じればいいかわからず、三人分の食器を洗い場に運ぶ。
一人になった和彦は、ひとまず聡子に挨拶をしておこうと広間に行ってみる。思ったとおり、聡子は正時の側にいた。
「朝食は食べましたか?」
控えめに室内を覗く和彦に気づいて、聡子がそう問いかけてくる。頷いてから、聡子の傍らに腰を下ろす。
「父さんと母さんは、少し休むそうです。昨夜は眠れなかったようなので」
「夜、何度か様子を見に来てくれたんですよ。仕事を終えてこちらに移動するだけでも大変だったでしょうに。――でもおかげで、俊哉さんとはいろいろと話すことができました」
視線を伏せ気味だった聡子が、ふっと襖のほうに目をやってから声を潜めた。
「あなたが預かってきた香典だけど、後日、あなた宛てに香典返しと礼状を送ります。それをあなたから、〈あちら〉に渡してもらえますか? ただし、わたしの名は記しません。礼儀知らずな行為になりますけど、事情は汲んでもらえると思っています」
長嶺組と総和会と直接和泉家が繋がったという証を残す危険性を言っているのだ。それぞれ大きな組織を背負う父子が迂闊なことをするはずもないと信じたいが、全面的に信用するわけにはいかない聡子の立場もよくわかる。礼状を送ることが精一杯の誠意なのだろう。
「ぼくからきちんと説明しておきます。……大変なときに、おばあ様には面倒をかけてしまって――」
「こんなの面倒のうちに入りませんよ」
そう言ってようやく聡子が笑みを浮かべる。すぐにでも消えてしまいそうな儚い表情であっても、和彦には救いになる。正時を亡くしたばかりであっても、聡子は決して絶望はしていないのだと。
午後になってから湯灌(ゆかん)と納棺に立ち合った和彦だが、よほどひどい顔色になっていたのか、通夜が始まる夕方までは休むよう勧められた。あまり自覚はなかったが、疲労はしっかり蓄積していたようだ。
俊哉と綾香にまで言われると逆らうのも大人げないようで、やむなく広間をあとにする。夜には寝ずの番に加わるつもりなので、休めるときに休んでおくというのは正しい判断なのだ。
それでも――。まっすぐ部屋に戻る気にはなれず、だからといっていろんな人たちが行き来している屋敷内を歩き回るのもためらわれ、和彦は外の空気を吸いに出る。少しだけ一息ついたら戻るつもりだったが、珍しさもあって広い敷地内をつい歩き回ってしまう。
そこで小さな池を見つけて、誘われるように歩み寄る。漂う水草の間に魚の影がちらりと見え、何が棲んでいるのだろうと目を凝らしていた和彦だが、すぐに、池の側にある階段に気づいた。どこに繋がっているのか、きれいに掃き清められた石階段で、今度はこちらに興味を惹かれる。
一段、二段と下っていたものの、さらに探索を続けてしまう気がして足を止める。
「うわ……」
足元に向けていた視線を上げてみれば、風を受けて波打つように揺れる麦畑が飛び込んでくる。麦が黄金色に染まるのはまだ先らしく、青々として目に鮮やかだ。和彦はほっと息を吐きだすと、きょろきょろと辺りを見回してから、階段に腰掛ける。
ぼんやりと、ただ無心で麦畑を眺めていると、階段を上がってくる人影があった。すれ違うには問題がないのだろうが、こんなところに座り込んでいてはさすがに邪魔になる。和彦は腰を上げようとして、そのまま動きを止めた。とっくに和彦がいるとわかっていたらしく、階段を上がってきた人物は眉をひそめていた。
「もしかして、気分が悪いとかじゃ……」
「あっ、いえ、違います。たまたま階段を見つけて下りたら、いい景色だと思って見てただけです」
開口一番、なんとも医者らしいことを言った賀谷に応じる。ほっとしたように眉を下げた賀谷は、和彦の隣に腰を下ろした。
「できれば朝から来たかったんだけど、午前中は診療所を開けていてね。案の定診察が長引いて、こんな時間になってしまった」
賀谷の横顔には強い疲労感が漂っている。そこに悲しみも加わっているのは、腫れた両瞼が物語っている。
「――……この階段は、和泉家の人しか使わない秘密通路みたいなものでね。下りた先に、正時さんの趣味の道具を仕舞ってある小屋がある。屋敷に持ち込まないのは、聡子さんに見つかって小言を言われるのが嫌だって……。けっこう子供みたいなところがあったんだ。まあ、聡子さんは全部知ってたんだけどね」
「どんな趣味なんですか」
「釣りだよ。川釣り。子供の頃から川遊びが好きだったらしい。ときどきぼくも連れて行ってもらってね。残念ながら、正時さんの指導のわりに、ぼくは全然上手くならなかったんだけど」
よく釣りの話をしていたという小屋で、賀谷はひっそりと思い出に浸っていたのだろう。
少しの間、二人の間に沈黙が流れる。それは息が詰まるような重苦しいものではなく、ただなんとなく、互いの存在を空気のように受け入れる自然なものだった。和彦は特別な感情を込めて、改めて賀谷の横顔に視線を向ける。
「あの――」
「前に君が打ち明けてくれただろう、〈これから〉のことを」
鷹津とログハウスで生活していたときのことだ。和彦は電話で賀谷にある相談をしていた。
「君は可能性の一つとして言っていたけど、ぼくはずっと悩んでいたんだ。いままで返事をしなかったことで察しているけど思うけど」
「……自分でも、迷惑を顧みないことを言ってしまったと思います。だから、忘れてもらっていたほうが……」
「正時さんを看取りながら、ぼくは君のことを考えていた。――独身だったぼくには、父を亡くしてから身内と呼べる人がいなくてね。前にも言ったけど、そんな中、ずっとよくしてくれたのは正時さんと聡子さんのご夫妻だ。……紗香さんのこともあるのに、本当によくしてくれた」
聡子もずいぶん賀谷を頼りにしているようだったので、この言葉にうそはないとわかる。
「もう一人の父を亡くしたような気持ちだよ。いや……、薄情だけど、実の父を亡くしたときよりも、喪失感が強い。それで、気づいたんだ。ぼくが死んだとき、誰かに強い気持ちを残すことができるのだろうかと。喪失感や悲しみだけじゃなく、憎しみでも、怒りでも。ずっと独りよがりで生きてきたぼくに、そういうものを求める権利はないのかもしれない。だけど――最後のチャンスなのかもしれないと思ったんだ。君は、紗香さんの子だ。そして……、ぼくの子でもある」
年明けに和彦が、自分の父親なのかと問いかけたとき、賀谷は明言を避けた。紗香の意思を受けてのものだろうが、ここにきて賀谷は自らの答えを出した。『君はぼくの子だ』ともう一度呟いて、賀谷はぐいっと目元を拭った。
「本当に、呆れるほど勇気のない男だろう? 父親のように慕っていた人を亡くして、ようやく認めるなんて。ぼくは……、この世で独りになってしまうのが怖い。何も残せないと認めるのがつらい」
この人は、紗香を失ったことをどれだけ後悔してきたのだろうか。静かに涙を流し続ける賀谷を見ながら、和彦は痛ましさに胸が苦しくなる。何度か嗚咽を洩らしたあと、どうにか気持ちを落ち着けた賀谷は、決意を込めた眼差しを和彦に向けてきた。
「佐伯さんと綾香さんから、君を取り上げようとは思わない。でも、その君が必要だというなら、ぼくは喜んで家に迎え入れるよ。そのとき君は、〈賀谷和彦〉と名乗ることになる」
和彦には、一つの想いがあった。佐伯家が自分を縛り付けるのなら、もしくは自分が、佐伯家の人たちの人生を歪めるなら、別の姓を名乗ろうと。そこで選択肢として頭に浮かんだのは、和泉と長嶺の姓だった。おそらく和彦が望めば、どちらも否とは言わないだろう。だが――。
「ぼくは一介の医者だ。立派な家柄でもなく、家族が増えたところで軋轢を生む人間関係もない。何もないからこそ、都合がいい。君にとって」
打算的だと賀谷は責めない。電話で打ち明けたときも同じ態度だった。
「ずいぶん前に、聡子さんから言われたことがあるんだ。うちの養子に入らないかって。そのときなんとなく感じたよ。将来的にご夫妻は、和泉家に君を迎え入れるつもりなのかもしれないと。たった一人男孫が同じ姓を名乗ってくれるだけで、ずいぶん心強くなる。聡子さんは特に今は、君を気にかけているだろうしね」
「……どうして断ったんですか。養子のこと」
「ぼくは自分の姓にこだわりはなかったんだ。だけど紗香さんと出かけたとき、何かで記帳する機会があってね。そのとき嬉しそうに、〈賀谷紗香〉と書いてくれたんだ。だから、かな。彼女はもういないけど、心の拠り所を残しておきたかった。ぼくにとっても、紗香さんにとっても。結果として、君の力になれるんなら、うん、ぼくの選択は間違ってないはずだ」
賀谷からもっと実母との思い出を聞いてみたかった。同じぐらい、正時や聡子との思い出も。
「聡子さんは、生き抜くための武器を君に与えると言っていた。ぼくの場合は、武器というには頼りないけど、いざというとき君が取れる手段の一つになれれば嬉しい。――紗香さんのようにはならないでくれ。これが、ぼくが〈息子〉に望むたった一つのことだ」
もう行こうかと賀谷に促され、和彦は立ち上がる。先に階段を上がる賀谷の後ろ姿を特別な感慨をもって見つめていた。
これが父の背かと心の中で呟きながら。
滞りなく正時の葬儀を終えると、その日のうちに俊哉は慌ただしく帰っていった。消沈と気忙しさから和彦は、俊哉とゆっくりと話せる時間が最後まで持てなかったが、心の半分では安堵もしていた。何もかも見透かしてしまいそうな俊哉と対峙するのは、正直当分は避けたい。
一方の綾香は、せめて初七日を終えるまでは正時の側にいたいと、屋敷に滞在することにしたそうだ。できることなら和彦も付き添いたかったが、連休明けのクリニック再開の準備がある。葬儀の翌日、聡子に詫びてから屋敷をあとにした。
一番慌ただしかったのは、おそらく賀谷だろう。通夜と葬儀に参列するのもなんとか時間を捻出した状況だそうで、精進落としを断って診療所に戻っていた。玄関を出る賀谷と最後に視線を交わし合ったとき、不思議な感情が胸の奥に広がったが、それがなんであるか、葬儀の翌日になっても和彦には判然としない。ただ、嫌な感情ではなかった。
列車の座席に身を預けながら、和彦は外を流れていく景色をぼんやりと眺めていた。すでに日は暮れかけ、遠くの空は薄闇に覆われかけている。
さすがにまだ連休中ということもあり、車内は満席だ。年明けに利用したときと同じだ。新幹線の予約は早々に諦めた。移動に時間はかかるものの、とりあえず列車の席を確保できたのはありがたい。
世間は連休で浮かれていても、何も観光の行き帰りの人間ばかりではない。祖父の葬儀に参列した和彦のような者もいれば、隣の座席のスーツ姿の男性はいかにも出張帰りのお疲れ顔だ。さきほどから缶ビールを消費するペースが速い。
和彦はペットボトルのお茶に口をつける。和泉家に向かうときは車で三人での移動となったが、現在、和彦は一人きりだ。おかげで、いくらでも気が抜ける。
九鬼と烏丸は屋敷に残り、聡子の指示でやることがあるそうだ。烏丸に送り届けさせようかと九鬼は言ってくれたが、和彦は固辞した。今はとにかく、聡子の周囲に信頼のおける人間を置いておくほうが大事だ。
できることなら初七日にも参列したい気持ちはあるが、さすがに再開したばかりのクリニックを休むわけにもいかない。その代わり、四十九日には必ず出席させてほしいと聡子には頼んでおいた。
予定通りに列車が駅に到着し、和彦は荷物を抱えて移動する。改札を抜けると、人混みの中、やけに人目を惹く青年が立っていた。涼しげな半袖のサマーニットに、ゆったりめのドレープパンツを穿いており、キャップを被っている。
本宅以外でこんなにカジュアルな格好をした千尋は、久しぶりに見たかもしれない。わずかに目を細めた和彦に対して、千尋は控えめに片手をあげて寄越した。
少し離れた位置に長嶺組の組員たちがいて、目が合い軽く会釈を交わす。
「わざわざ来てくれたのか……」
歩み寄った和彦の手から、当然のように荷物を受け取りながら、千尋が澄ました顔で頷く。
「当然。ちょうど夕方から俺の予定が空いててよかったよ」
和泉家を出発する前に、何時の列車に乗るか知らせておいたが、和彦としては迎えを期待してのものではなく、一人でタクシーで帰るつもりだったのだ。
長嶺の男の過保護ぶりをいまさらながら噛み締めている間に、千尋から組員へと、荷物は渡っていく。
「……ずいぶん疲れた顔してる。大丈夫?」
「さすがに堪えた……。だけど、平気だ」
とにかくここから移動しようと、千尋の手がそっと背にかかる。待機していた長嶺組の車に乗り込んだとき、思わず和彦は吐息を洩らしていた。だらしなくシートに体を預けていたが、ハッと我に返って姿勢を正す。何事かと、千尋が目を丸くした。
「和彦?」
「あの……、今回は、ぼくだけじゃなく、祖父母のことまで気遣ってもらって、ありがとう。もちろんあとで、組長や会長にもお礼を――」
「和彦は、俺たちの身内。香典を渡すぐらい当然でしょ。なんか、まったく繋がりがないわけでもなかったようだし。和彦のお母さんの実家と、長嶺の家って。じいちゃんもオヤジも意味ありげな様子だけど、俺には教えてくれないんだよなー。上の世代だけで秘匿しておきたいってことなんだろうけど」
口惜しそうに少し唇を尖らせた千尋だが、本気で探りたいわけではないようで、すぐに表情を改めて和彦にこう言った。
「とにかく気にしなくていいよ。じいちゃんとオヤジは、きちんと義理が果たせたことに満足してるんだから」
頷いてはおいたが、あとで二人に帰着の報告をしておかなければならない。ずいぶん気をつかってもらったというのは、和泉家に滞在中、一度も様子をうかがう連絡がなかったことからもわかる。つまり、そっとしておいてくれたのだ。
ようやく気を緩めて再びシートにもたれかかった和彦は、自分のことを話すより先に、さきほどから感じていた疑問を千尋にぶつける。疲れていても、好奇心には抗えない。
「――今日は何かあったのか?」
千尋が小首を傾げる。
「えっ……」
「お前がそういう服装をしてるから、気になって。世間に倣って、組の仕事は休みなのか?」
「……動物園に行ってた。そんな大きいところじゃないんだけど。さすが連休中だけあって、客が多くてさ。動物見に来てんだか、はしゃぐチビたちを見に来たんだかという感じで」
早口に捲し立てる千尋を、呆気に取られて和彦は見つめる。そこで、ようやく察した。
「あー、稜人くん、か?」
「動物好きらしいんだよ。昆虫は……いまいちらしくて。それで、動物園に行ってみるかと」
「喜んでたか?」
「どうだろ。おっかなびっくりでうさぎを撫でて、膝にモルモットをのせたときは目をまん丸にしてた。あと、ヤギに餌やりながら、一生懸命話しかけてた。喜んでた、と思う」
話を聞きながら和彦の表情は緩む。いまだ会ったことのない稜人の様子を聞くだけでも可愛いが、それを話す千尋も、可愛い。自分から思いついたのか、周囲からのアドバイスに従ったうえでの行動かはわからないが、千尋は確かに稜人との距離を縮めようと努力している。
「写真は撮らなかったのか?」
あっ、と声を洩らして目を見開いた千尋の肩を、和彦は軽く叩く。
「これから撮る機会はいくらでもあるだろ」
同行する組員に頼んだほうが確実な気もするが、余計な口出しはしないでおく。
他愛ないことを話している最中に、千尋の腹が豪快な音を立てる。自分の腹をさすって、千尋が情けない顔をした。
「今日は動き回ったから、腹減った……。和彦、晩メシはどうする?」
「途中でどこかに寄ってもらえるとありがたい。買って帰ってもいいし、お前の予定に合わせる」
にんまりとした千尋は、すぐさま前列に座る組員たちと打ち合わせを始める。それを聞きながら和彦は、道路沿いにある回転寿司のチェーン店やファミレスを横目で眺める。手っ取り早くていいと思うのだが、長嶺組の男たちの選択肢には入っていないようだ。
結局連れて行かれたのは、いかにも老舗といった店構えの洋食屋だった。夕食時ということもあって混雑はしていたが、さほど待つことなくテーブルに案内される。家族連れが多いためか店内はずいぶんにぎやかだが、まったく不快ではなかった。楽しげにお子様ランチを食べている隣のテーブルの男の子に、つい目を細める。おそらく稜人と同じ年ぐらいだ。
「和彦は何食べる?」
千尋がメニューを開いて見せてくれる。まっさきに目についたメニューの写真を和彦は指さした。
「エビフライ」
「んじゃ、俺は――」
同じテーブルには長嶺組の組員たちもついている。駐車場で待ってもらうのも悪いからと、和彦が誘ったのだ。
「……昼、何を食べたんだ?」
ふっと疑問が口を突いて出る。注文を終えた千尋はきょとんとしたあと、ごそごそとパンツのポケットをまさぐる。
「財布にレシートが入ってる。ちょっと待ってね」
「あー、そこまでしなくていいっ。ただ、稜人くんと何食べたのか、ちらっと気になっただけだ」
「稜人、でいいよ。よそよそしいから」
「……ぼくは身内というにはアレだし、ただの関係者としては、呼び捨てはなんか抵抗が……」
「変なところでお堅いの変わらないよねー、和彦」
笑いながら千尋がレシートを出してきたので、結局見せてもらう。子供向けのハンバーグセットにソフトクリームのメニュー名を見て、口元を緩める。
「普段は食が細いみたいだけど、今日はけっこうがんばって食ってたよ」
千尋の報告を聞きながら、うんうんと頷いていた和彦だが、突然千尋が、何かに気づいたように視線を伏せた。
「ごめん……。和彦が大変だったのに、のんきに遊んでた話なんてして」
「変な気のつかい方をするな。むしろこっちは、ほっとできる話が聞きたいんだ。――お前も楽しかったんだな。そういう顔をしてる」
「まだ、どう接していいのか試行錯誤中だよ。歩いてると、兄弟に間違われることがあって、俺より稜人のほうが妙な顔してるし。……ちっちゃいけど、聡いよ。なんだろうな―、中身はオヤジ似かもしれない」
「……将来が恐ろしいな、それは」
大まじめな顔で千尋も同意した。
せっかく送ってくれたのだから部屋に寄るかと千尋に問うと、断られた。決して儀礼的な気持ちからの誘いではなかったのだが、疲れている和彦を慮ってくれたようだ。
和彦の正直な気持ちとしては、部屋で一人となるのがなんとなく寂しかったのだ。移動の列車内では一人だと気が抜けていいと思っていたのに勝手なものだと、自嘲して唇を歪める。
自宅マンションに帰り着いた和彦は、テーブルに荷物を置いてしまうと、すぐには動く気力が湧かなかった。何もかも後回しにして、ひとまずベッドに倒れ込みたい衝動がないわけではないが、抑え込むのは容易い。まず最初に俊哉へ、帰宅したことをメールで知らせておく。きっといまごろは仕事中だ。次に聡子には電話を。
ここで一息つくため、コーヒーを淹れる。和泉家ではなんとなく日本茶ばかり飲んでいたため、数日ぶりに嗅いだコーヒーの香りが体の隅々まで行き渡る。少し甘めのカフェオレにして、それを味わってからいよいよ長嶺の男たちに電話をかける。残念ながら守光は会食中ということで、電話を預かっている側近の一人が応対した。取り次いでもかまわないと言ってくれたが、祖父の葬儀を終えて戻ってきた報告と、気遣いの礼を託けておくに留めた。
最後は賢吾だ。こちらは留守電に切り替わったため、用件を吹き込んでおいたが、数分後に折り返し電話がかかってきた。
「――……忙しいなら、明日でもかまわなかったのに……」
和彦の言葉に、低い笑い声が応える。
『少しでも早く、俺の声が聞きたいかと思ったんだが』
「まあ……、それは否定しないけど」
意地を張っても仕方ない。鼓膜にじわりと浸み込むバリトンの響きは魅力的であると同時に、安心感もある。砕けた会話を始める前にまずは、さきほど守光宛てに託けたものと同じ内容を口にする。香典返しと礼状について、聡子から言われた通りに伝えると、苦い声音で賢吾が言った。
「お前の祖母君には、大変なときにかえって手間を取らせることになったな。よくよく、礼と謝罪を言っておいてもらえないか。オヤジのほうは詫びに何か贈ると言い出しかねないが、俺がしっかり止めておく」
「……助かる」
これから初七日や四十九日もあるため、義理事に一言ありそうな男たちが何か言い出しかねないと気が気でなかったが、ひとまず賢吾に任せておけば大丈夫のようだ。
ここでふっと会話が止まる。電話の向こうに賢吾の気配を感じながら、和彦はカップに残っていたカフェオレを飲み干した。
『――何か、話したいことがあるんじゃないか』
大蛇の化身のような男は、嫌になるほど勘がいい。それとも自覚もないまま和彦自身が、察してほしいという空気を放っているのか――。
実父と認めた賀谷とのやり取りが脳裏に浮かぶが、瞬時に思考を切り替える。まだ心の奥底に秘めておくべき事柄だ。
「さっきまで千尋と会ってたんだ。わざわざ駅まで迎えに来てくれて。……稜人く――稜人と、動物園に行ったと言っていた」
『一緒に暮らすことはもう決まってる。できる限り自然な態度で迎えたいと言って、慣らしているんだ。子供ながら複雑な自分の環境も理解して、口も達者になってきてる稜人相手に、自分が父親だという態度で接したところで反発される。千尋自身、いまいち自覚も薄いだろうしな。だったらせめて、親戚の兄ちゃん程度の親しみを持ってもらいたいってところだろ』
「……あんたのアドバイスか?」
『俺は何も言ってない。オヤジは……どうだろうな。少なくとも俺は、オヤジに一度も動物園に連れて行ってもらったことはないぜ』
「ぼくもない」
一拍置いて、ため息交じりに賢吾がぼやく。
「お互い、いい父親になるアドバイスはできそうにねーな」
まったくだと和彦は苦笑を洩らす。
「なんにしても、二人が上手くやってくれたらいいと思う。千尋が稜人のためにあれこれと考えている姿を見るのが好きなんだ、ぼくは」
「お前は千尋に甘いからな」
「あんたにだって甘いだろ」
珍しく、賢吾に口で勝った。沈黙したあと、何事もなかったように賢吾から、今日は早く休めと言われて電話が切られる。
少しの間口元を緩めていた和彦だが、ようやく気持ちを切り替えて立ち上がった。
悪夢を見そうだからという理由で安定剤を飲まなかったことを、半分覚醒した頭で和彦は後悔していた。疲れきった状態ならすぐに熟睡できるだろうと考えていたのだが、一度寝入ってすぐに目が覚めた。そこからウトウトしては意識が引き戻されるということを繰り返している。
和泉の屋敷では気を張っていたせいか、眠りが浅くてもさほど問題なかったが、緊張から解き放たれた今は、どうも具合が悪い。
暗い天井をぼんやりと見上げる。今頃、聡子や綾香も眠れない夜を過ごしているのだろうかと、ふと考える。正時の思い出を語り合っているとも思えず、誰か緩衝材的な存在がいればいいのだがと、都合のいい願いを抱く。
ここで、九鬼にも連絡しておいたほうがよかっただろうかと、突如気になった。トラブルなく帰着したことは聡子の口から伝わっているだろうと安易に考えていたのだが、何かと世話になり、気にもかけてくれている男にそれは少々礼を欠いていたかもしれない。
和彦は寝返りを打った拍子に大きくため息をつく。あらゆることが気になり、不安になってくるこの状態には身に覚えがある。ログハウスでの静かな暮らしから一転、短期間であまりにいろいろありすぎたせいだろうなと見当をつけ、安眠を諦めて起き上がる。少し寝酒をしたくなった。
賢吾が持ち込んだ高価な洋酒を舐める程度に――。よたよたとした足取りで薄暗いキッチンに向かった和彦は、食器棚からグラスを取り出す。さらに、並んだ酒瓶の中からどれにしようかと選んでいると、前触れもなくダイニングで物音がした。ハッと視線を向けた先で、人影が動く。
短く声を上げた瞬間に、手からグラスが滑り落ちた。床の上で派手な音がしたが、和彦がもう一度上げた声に重なるように、傍らで慌てた声が上がった。
「うわーっ、和彦、ストップっ。動かないでっ」
千尋の声だ。状況が呑み込めないまま和彦が動けないでいる間に、キッチンの電気がつけられる。別れたときと同じ服装をした千尋が、必死の形相でこちらにてのひらを向けてくる。
「動かないでよっ。今、掃除機持ってくるから」
ぎこちなく足元に視線を向ければ、グラスが割れて砕けている。スリッパを履いていなければ、破片が当たっていたかもしれない。
すぐに掃除機を抱えてやってきた千尋を手伝おうとして、また制止される。仕方なく和彦はその場に立ち尽くしたまま、千尋の作業を見守る。
「……家に来るのはいいけど、せめて連絡してくれ。父子揃って、ぼくを驚かせて楽しんでるのか」
せっせとグラスの破片を片付ける千尋に苦言を呈する。怒ってはいないのだが、とにかく心臓に悪い。
「まあ、正直、びっくりしてる和彦が可愛いというのはある」
「三十過ぎた男に可愛いも何もないだろう、お前――……」
「そう思ってるのは本人だけってね」
和彦は千尋の頭を軽く小突いてから、盛大なため息をつく。ようやく心臓の鼓動が落ち着いてきて、破片も片付いたようなので、慎重な足取りでキッチンを出る。
「何をしようと思ってキッチンに来たのか、忘れた……」
「グラス出してたんだから、何か飲もうとしてたんでしょ」
「そうだった。眠れないから、ちょっとお酒を飲もうと思ったんだ。けど、びっくりしすぎて、そんな気もなくなった」
「だったら俺が、ホットミルク入れてあげる」
和彦が返事をする前に、千尋はさっそく冷蔵庫を開けている。イスに腰掛け、牛乳を小鍋を注ぐ千尋の後ろ姿を眺めながら話しかける。
「――心配して、様子を見に来てくれたんだろ?」
「そんな大層な理由じゃなくて、ちゃんと寝てるかなと気になって……」
「お前も今日は疲れただろうに、苦労性だな」
「そこはまあ、来たついでに和彦の隣に潜り込もうと思ってたから、大したことじゃないんだよ」
声を上げて笑ってしまった時点で、千尋を追い返すのは不可能になっていた。
「ぼくがホットミルクを飲んでる間に、シャワーを浴びてこいよ」
顔が見えなくても、千尋がにんまりと笑ったのがなんとなく伝わってきた。
ぐふふ、とやや気持ちの悪い笑い声が、隣から聞こえてくる。一緒のベッドに入っただけで何が嬉しいのか、さきほどから千尋はこの調子だ。照明を完全に消そうとして止められたので、千尋は夜更かしする気満々なのかもしれない。
「……お前、明日仕事があるんじゃないのか。早く寝ろよ」
「気にしないでよ。仕事は昼からだから。和彦のほうはどうなの?」
「ぼくは……どうだろ。クリニックのことで、打ち合わせの予定を組み直さないと。組で上手くやってくれているだろうけど」
「うんうん。和彦はドンとかまえていればいいよ」
それはそれで、肩書きだけとはいえ経営者としてどうだろうと思わなくもない。
さきほどは一人で見上げていた寝室の天井を、今は千尋と二人並んで見上げている。肩先から、子供の体温に近い千尋のぬくもりがじんわりと伝わってくる。
「――和彦のお母さんの実家って、どんなところか聞いていい?」
自然な口調で千尋が問いかけてくる。これは何かを探ろうとしているのだろうかと一瞬身構えた和彦だが、守光はとっくに知っているだろうし、賢吾は調べているはずだ。一方の千尋は、無邪気な口調からして本当に何も知らされていないようだ。そこで差し障りのないことを話す。
「大きい屋敷だ。それと土地が広くて、塀に囲まれてるんだけど、その塀の内側に畑や、いくつも蔵や建物があるんだ。昔、すごい農家だったらしくて、その名残りみたいだな。それで――」
「それで?」
「猫をたくさん飼ってる」
意外なことに、千尋の興味を惹いたようだ。ガバッと起き上がり、顔を近づけてきた。
「何匹っ?」
「お前が気になるのはそこか……。何匹かな。ぼくも全員と顔を合わせられたわけじゃないと思う。確か、白猫二匹にトラ猫と黒猫、あと灰色の猫がいて、三毛猫の子猫もいたな。屋敷のあちこちで、ちらちらと尻尾が見えてたから、ぼくから逃げ回ってる他の猫もいたはずだ」
「すっげー、楽しそう――っと、ごめん」
気を使いすぎだと、肘で軽く千尋の腕を小突く。
「人懐こい子に、たっぷり撫でさせてもらった」
「飼いたくなったんじゃない?」
「いいなとは思うけど、飼うとなると大変だしな。ときどき撫でさせてもらうぐらいでちょうどいい」
これからは、毎月とまではいかなくとも、なるべく時間を作って和泉の屋敷に顔を出したいと考えていた。聡子の顔を見たいし、自然に囲まれたのどかな環境がほっとするというのもある。
突然、和彦の手を握り締めてきた千尋が、肩先に額をこすりつけてくる。言葉にせずとも、千尋が何を考えたのか伝わってくる。
「〈向こう〉に住みたくなったとか、そういうのはないからな。……いいところだとは思うけど、思い出がほとんど残ってない場所だし。祖父が亡くなって悲しいという気持ちは確かにあるんだけど、それ以上に、子供の頃から積み重ねられたかもしれない祖父母との思い出を、いろんな事情があって作ることができなかったのが、切ないというか、寂しいというか。別に、里心が出たというわけじゃない」
だから不安に感じなくていいと、和彦はゆっくりとした口調で千尋に言い含める。しかしまだ納得がいかないのか、もぞもぞと千尋の頭が動く。
「……お前本当に、ぼくのことが好きだな」
つい呆れた口調になってしまう。パッと顔を上げた千尋は、信じられないといった様子で目を大きく見開いている。
「いまさらそれっ?」
「ずっと前に言った気もするけど、そのうち飽きるだろうとか、落ち着いてくるだろうとか考えてた。でもお前、全然――」
確実に大人になっている千尋だが、和彦に向けてくる執着だけは変わっていないと断言できる。
「ありがたいけど、お前が若いうちにできる経験を奪ってるんじゃないかと、申し訳なくもなってくる……。言っておくが、今のぼくはとても後ろ向きになってるからな。あれこれといろんなことが心配になって、不安なんだ。それで眠れなくて寝酒しようとしてたところに、お前が忍び込んできた。鬱陶しくてもつき合えよ」
「三十過ぎてもそんな感じの和彦が、可愛いくてたまんない」
腕にしがみついてくる千尋に、ただ苦笑が洩れる。半日前まで沈鬱な気持ちに支配されていたというのに、今はこうして能天気な会話を交わしているのだ。日々を生きていくというとはこういうことだろうなと、妙に感慨深い。
「――和彦が考え込む前に言っておくけど、俺、稜人が本宅に住むようになっても、和彦とはいままで通りつき合うから」
「それはいいけど、大事なのは稜人に対する配慮だからな? 一般的な価値観とか道徳とか、そういうのがしっかりしてくるまでは、あまり刺激が強いのは……」
「ヤクザの組長の自宅で暮らすのに、刺激云々は無茶じゃない?」
「日常的に抗争してたり、血まみれの組員が出入りしてるわけじゃないだろっ。……ぼくはたまに本宅で接待を受けてる、よくわからない人扱いでいいよ。稜人が大きくなるまでは」
必死に考えながら話しているというのに、なぜか千尋の手が和彦の体を這い回る。
「おい」
「今のところ、一般的じゃない家庭で育った男が三世代揃っているから、稜人のことは任せて」
「そういえばそうだったな。いや、でも、その三世代を見ているからこそ、不安なんだが」
話している間にも千尋の手は、パジャマ代わりのTシャツの下に入り込んでくる。軽く睨みつけると、あざとい上目遣いで見つめ返された。
「心配してくれてる和彦が可愛くて……」
「お前、そう言えばぼくを丸め込めると思ってるだろ」
悪びれもせず頷かれた。和彦がふっと息を吐いて力を抜くと、さっそく千尋にTシャツを脱がされた。千尋は最初から上半身裸だ。
ぐいっと頭を引き寄せられ、抱き締められる。本当に体温が高いなと思いながら和彦は、千尋の剥き出しの肩に顔を寄せた。一方の千尋も、和彦の耳元に顔を寄せ、露骨に匂いを嗅いでくる。本当に犬っころのようだ。
「――ご苦労様。ずっと気を張ってて疲れたでしょ」
そう囁いてきた千尋が、ポンポンと背を叩いてくる。子供を寝かしつけるような動作に、和彦は小さく笑い声を洩らした。
「どうした。父性が溢れ出てきてるのか?」
「いやいや、下心ありありだけど」
片手を取られて両足の間に導かれる。ハーフパンツ越しの硬いものに触れた途端、ごめんと千尋に謝られた。
「……素直なのが、お前の美点の一つだな」
「やったー。俺、他にもいいところあるんだ」
少しためらったが、和彦はハーフパンツの中に手を突っ込み、直に千尋のものに触れる。緩く勃ち上がりかけていたものをてのひらで握り込むと、荒い息遣いが耳元を掠めた。
「本当に素直だ」
「うっ、ごめん……」
危うく、可愛いなと言ってしまいそうになったが、ぐっと堪える。代わり口にしたのはこの言葉だった。
「お前も今日はご苦労様」
父親と息子の関係について和彦個人も思うところがあり、心配してあれこれと口出ししたくなる。ただ、誰よりも不安を覚えて、手探りで稜人との関係を模索しているのは千尋自身だ。過度な重圧はかけたくない。
「お前の優しさが伝わるといいな」
「和彦はさ、俺を甘やかしすぎだよね」
そう言った千尋の目が妖しくも鋭い光を宿す。
「……だから、すごく苛めたくなる」
もちろん千尋は、、抓ったり叩きたいと言っているわけではなく――。
「ごめんね、こんなときに。我慢できなくなった」
起き上がった千尋がハーフパンツと下着を脱ぎ捨てると、和彦の肩をやや乱暴に引き寄せる。何を求められているかすぐに察した和彦は、後頭部にかかった手に促されるまま、熱くなった千尋のものをゆっくりと口腔に呑み込んでいった。
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