なんとなく肩の辺りに違和感があり、ゆっくりと腕を回したり、首を傾けたりしていると、打ち合わせ相手の長嶺組の組員が不思議な顔をする。
「先生、どうかされましたか?」
「いや……、なんでもない」
これは軽い筋肉痛だとわかっているし、原因も明らかだ。和彦は複雑な表情を浮かべ、昨日の南郷との間に起きたさまざまな出来事の、ほんの一片だけ思い返す。そうでないと冷静でいられる気がしない。
「重いものを持ったせいかな……」
いい加減ジム通いも再開しなければと反省しつつ、打ち合わせに意識を戻す。
和彦が今いる場所は、クリニックの待合室だった。ソファもテーブルもあって、打ち合わせを行うのにちょうどいいのだ。連休明けの明日からいよいよクリニックを再開するため、今日は、和彦を陰からサポートしてくれている長嶺組関係者を集めての最終確認を行っていた。開業が決まったときから担当してもらっているコンサルタントや、機器メンテナンスを行う業者が、クリニック内を行き来している中、和彦はソファに腰掛け、長嶺組でいわゆる総務を担当している組員から説明を受けている。
再開当日にトラブルが起きないようにと、念には念を入れての集まりのため、安心はしていられた。なんといってもすべての事情を把握している面々だ。お飾り経営者である和彦は取り繕う必要がない。
だがせめて、事前に告知があってもいいのではないかと、多少思わなくもない。クリニックで皆が集まると告げられたのは、今朝、ベッドを抜け出してからだったのだ。
大蛇の化身のような男の冷たい怒気を感じた気がして、和彦は小さく身震いする。話さなくても察してしまう。隠したくても暴いてしまう。あの男の慎重さと執念深さはそういう類のものだ。賢吾は確実に、和彦と南郷との間に〈特別なこと〉があったのを知っている。
「新しく入ったスタッフの研修も問題なく終わりましたから、午後からのスタッフミーティングは明日の流れを確認するぐらいで大丈夫ですね」
「しばらくは忙しくないだろうから、その間にみんながいろいろと慣れてくれたらいいかな」
和彦はタブレットを操作し、今月の予約状況を確認する。当然のことながら予約枠の空白がかなり目立つ状況なのだが、嘆くのもおこがましいだろう。すべて自分が元凶だ。
飲食店ならチラシを撒いて宣伝活動に励むところだが、個人経営の美容外科クリニックはひたすら口コミと人脈が頼りとなる。和彦としては患者を待つしかなかった。
「昼間患者が来なくても、物騒なほうの患者で元手は回収していくので、あまり気に病むな、とのことです」
いつの間にか難しい顔をしていたらしい。気休めのように組員から声をかけられ、和彦は自分の眉間を軽く揉む。
「……患者がいるなら、いくらでも馬車馬のように働くよ」
「その意気です。あと――いい接骨院を知っているので、紹介しますよ?」
首を傾げた和彦に、組員が続ける。
「肩を気にされているようなので。寝違えましたか?」
「ああ……。いや、大丈夫。大したことじゃないから」
これは、賢吾に報告される流れだなと、和彦はひっそりと苦笑を洩らす。
昼食時を過ぎた午後、入れ替わるようにスタッフたちがやってきて、ミーティングを行う。改めて、新しいスタッフにはこのクリニックでの仕事の流れを、実際に動きながら説明して、丹念に確認していく。見る限りではスタッフ同士は和気あいあいとして、雰囲気はいい。こんな小さなクリニックでは些細な人間関係トラブルでも大事になりかねないので、そこだけは気をつけてくれとコンサルタントに言われている。今しがたの組員の発言といい、長嶺組が後ろ盾にいる限り、経営状態については心配するだけ無駄と思われているらしい。
一方のスタッフたちは、表向き体調不良によって数か月も休養していた和彦が心配らしく、何かと座っていてくださいとイスを勧められ、顔色もうかがわれる。一応、もう体調は万全だと説明はしているのだが、不安を払拭するのは簡単ではないようだ。
こちらも気長にやっていくかと、和彦は嘆息する。
ミーティングを終えたあとは、どうしても気になるというスタッフにクリニック内の飾りつけを任せ、ついでに福利厚生のためのコーヒーやお茶などの買い出しにも行ってもらう。そうしてバタバタしているうちに夕方になり、解散となる。
やるべきことはやったので、あとはもう、平穏にクリニック再開を待つだけだった。
しばらくは開店休業状態が続くことを覚悟していたが、意外なことにカウンセリング予約が立て続けに入ったり、休業前からの患者が何事もなかったように施術を受けに来てくれたりと、少なくとも暇を持て余すような事態にはなっていない。患者との世間話からそれとなく聞き出してみたが、どうやら秦が、自分の店の従業員を使って声をかけてくれたようだ。
持つべきものは、やり手の青年実業家の悪友だなと、和彦は素直に感謝する。
久しぶりに美容外科医として働く感覚を取り戻すために、細心の注意を払った。ヤクザやその関係者だけに囲まれて生活していると、どうしても人との接し方が雑になってくると、和彦なりに自覚があったのだ。数少ない長所と自負している人当たりの柔らかさを、クリニックのスタッフや患者を相手に遺憾なく発揮しながら、数日が過ぎていた。
接骨院に行くまでもなくあっさりと筋肉痛は治り、代わりに気疲れによる肩こりをなんとなく気にしながら、終業後の人気のなくなったクリニックを見て回る。火元を確認して、防犯システムを作動させる。
やっと今日の仕事は終わりだと、よろよろとした足取りでエレベーターに乗り込む。空腹だが、どこかの店に立ち寄るのは面倒で、連日手軽な弁当を買って帰っているため、そろそろ本宅の台所を取り仕切る笠野の耳に入りそうでもある。いっそ本宅で食べさせもらうというのも手だが、疲労困憊の状態で長嶺の男と相対するのも――。
「さらに疲れそうだな……」
本人たちには絶対聞かせられない独り言を呟いてから、和彦は口元に手をやる。悪気はないんだと、心の中で言い訳しておく。
長嶺の男たちは、クリニックを再開したばかりの和彦を気遣ってくれているのか連絡も控えめで、そんな彼らを悪し様に言ってはバチが当たる。
心の余裕がないのだなと自省しながらビルの外に出て、いつものように歩道を歩いていると、迎えの車が静かに傍らに着く。和彦は軽く周囲を見回して、素早く後部座席に乗り込んだ。
「――お疲れ様、先生」
今日の迎えは運転手だけなのかと思った瞬間、ハスキーな声をかけられる。和彦は目を見開いて身を乗り出しかけたが、ハッとしてシートベルトを締める。ちらりと振り返って確認した三田村が、静かに車を出した。
「先生、お腹は?」
「すぐにでも、盛大な腹の虫の音を響かせる自信がある」
驚いたことへの照れ隠しで、微妙に捻くれた言い回しになるが、三田村は小さく笑い声を洩らした。
「今晩は外で食べないか? 予約してあるんだ」
「誰かと一緒の外食なら大歓迎だ」
「それはよかった。実は笠野から、先生を本宅に連れてくるか、美味いものを食わせてほしいと言われてたんだ。……あー、もちろん、笠野に言われたから食事に誘ったわけじゃなく――」
今度は和彦が小さく笑い声を洩らす。三田村と一緒にいて感じる空気はやはり特別だ。柔らかくて穏やかで、心地いい。これで、この男もヤクザなのだ。
「それで、どこに連れて行ってくれるんだ?」
「スペイン料理の店。千尋さんが、パエリアがお勧めだと教えてくれた」
本宅で男たちがどんなやり取りをしたのだろうかと和彦は想像する。ただ一つはっきりと断言できるのは、食生活でずいぶん心配されていたのだということだ。
「――……いろいろあった」
すでに日が落ちた街の景色に目を向けながら、ぽつりと和彦は洩らす。何が、とは三田村は問わず、ただ聞いてくれる。
「一昨日、祖父の初七日が終わったんだ。母が向こうにいてくれたから、あまり心配はしていなかったけど、連絡をくれた祖母の声が思ったよりしっかりしてたんだ。こちらが気を使わないようにしてくれたんだと思う。……人生の巡り合わせというのは本当にあるんだな。ずっと疎遠だった祖父母とようやくまた会うことができたのに、交流する間もなく祖父がいなくなってしまった」
「でも、会えたことに後悔はなかったんだろう、先生は」
「もちろん。再会する前なら、なんの感情も湧かなかったかもしれないし、もしかすると、亡くなったということすら教えてもらわなかったかもしれない」
「なら、会えてよかった。先生にとっていい祖父君だと確認できたんだから」
うん、と和彦は子供のように頷く。
「きっと、ぼくの現状を知ったときは、びっくりしただろうし、心配もしただろうけど、何も言わないでくれた。世間的には眉をひそめられることなんだろうけど」
三田村に語って聞かせられるほど、正時との思い出はない。車内の空気を湿っぽくしたいわけでもないため、話題は自然と、再開したクリニックのこととなるが、再開して数日では、こちらも語れるほどのエピソードはない。
「三田村は、変わったことはないのか?」
「俺は……、先生に関わること以外では、話しておもしろいことはないな」
三田村の淡々とした――しすぎた口調に微妙に引っかかるものを感じる。その違和感がずっと気になり、商業ビル内にあるスペイン料理店に入っても消えない。
夕食時ということもあり、広い店内はほぼ満席の状態で、予約がなければすぐには入れなかっただろう。隣の大きなテーブル席は仕事帰りらしい社会人のグループで盛り上がっており、おかげでこちらの会話が聞かれるおそれもないようだ。その様子を一瞥して、三田村と一緒にメニューを覗き込む。
千尋のお勧めだという魚介のパエリアの他に、スペイン風のオムレツ、ミートボールのトマト煮とベーコンを添えたシーザーサラダを頼む。小皿に盛られたつまみを数品追加したのは三田村だ。すべて二人前の量でも、さらにバゲットもついてくるため、さすがに食べきれるだろうかと心配になったが、実際に料理を目の前にすると、たぶん大丈夫だなと思い直す。
「スペイン料理は久しぶりだ……」
魚介の旨みがよく効いたパエリアを一口、二口と口に運んでから、ため息交じりで和彦は洩らす。さっそくエビにも噛り付いていると、そんな和彦を優しい眼差しで三田村は見つめている。
「たくさん食べてくれ。胸を張って笠野に報告できるから」
「……もういっそ、テーブルの上の料理を写真に撮って送ったらどうだ」
なるほど、という顔をした三田村が携帯電話を取り出そうとしたので、慌てて止める。
「冗談だ、先生。俺もそこまで野暮じゃない」
「どうかな。三田村の場合、野暮というよりまじめすぎて――」
なぜだかこの瞬間、和彦は〈わかって〉しまった。賢吾だけでなく、三田村もまた、知っているのだ。和彦と南郷が二人きりとなり、数時間ともに過ごしたことを。その時間、何が行われたかも。
じゃがいもなどが入ったオムレツをフォークで掬い取り、じっくりと味わう。見た目どおりの素朴な味わいだが、これも美味しい。
「先生、肩を痛めていたそうだけど、もう大丈夫なのか?」
「――……軽い筋肉痛だったから、平気だ。普段、力仕事なんてしないのに、けっこうこき使われたんだ」
南郷さんに、と付け加えても、三田村は表情は変えない。急に喉を乾きを覚えた和彦は、シードルをグラス半分ほど飲む。リンゴの爽やかな香りとともに、すっきりとした甘さが口腔に残る。飲みやすいが、もう少しアルコール度数が高めのワインを頼んでもよかったなと、少しだけ後悔する。一方の三田村は、車の運転があるため炭酸水だ。
バゲットを千切り、トマト煮のソースをつけてぱくりと頬張る。一通り料理に手をつけてから、和彦はさらりと切り出した。
「三田村、後悔してないか?」
「何について」
「ぼくは……、あんたと初めて会ったときに比べて、ずいぶん変わった。自分で言うのもなんだけど、図太くて、逞しくなった。もともとズルい人間ではあったけど」
三田村は不思議そうに首を傾げる。
「先生が変わったとして、どうして俺が後悔することになるんだ」
「普通の……恋愛関係でもあるだろう? こんなはずじゃなかった、とか。こんな人間だとは思わなかったとか……」
三田村はため息に似た声を洩らした。
「先生と俺は――、最悪な状態で知り合ったと言っていい」
「うん……」
本当に最悪だったなと、自然と苦い表情になる。そんな和彦を見て、三田村は目元を和らげる。
「そこから二人で、いろんなものを積み上げきた。少なくとも俺にとっては、日々、新しい先生と出会っていると思っている。先生と知り合う以前の俺は、何もない、ただヤクザというだけのつまらない男だった。そこに、特別な先生(ひと)と知り合ったことで、何もかも変わった。変えてくれた。積み上げることで、変えてきた。そこには、マイナス要素は何もない。俺の世界に先生がいるだけで、十分満たされているし、幸せなんだ」
思いがけず真摯な言葉が返ってきて、瞬く間に和彦の頬は熱くなってくる。もしかして赤くなっているかもしれない。
動揺を抑えるために口元を手で覆う。
「……ときどき、あんたは、とんでもなく情熱的なことを言ってくれるな。ぼくは、暗に催促したわけじゃないからな。そういうことを言ってほしいと……」
「ああ。俺が伝えておきたいから、言っただけだ。気にしなくていい」
何事もなかったようにパエリアを食べる三田村を、半ば呆然として眺めていた和彦だが、我に返ってからシーザーサラダに手をつける。
「次からは、大胆なことを言う前に予告してほしい。動揺して、食べ物の味がわからなくなる」
「先生は繊細だ」
「ぼくの対極にある言葉だ」
和彦の自嘲に対して、三田村は一瞬だけ鋭い眼差しを向けてきたが、その理由は、食後のデザートが運ばれてきてから明らかになる。
表面が黒く焦げたチーズケーキを一掬いして口に運ぶ。満腹まで詰め込んだ胃には重いのではないかと危惧したが、意外にまだ余裕はあったようだ。三田村はデザート抜きで、コーヒーを啜っている。
「先生が――」
前置きもなくふいに三田村が語り始める。
「先生が、自分が変わっていくことを気に病むなら、俺〈たち〉は遠慮なくそれを利用させてもらう。先生を変えてしまった責任を取らせてほしいと言いながら、どこにも行かないよう縛り付ける口実にするんだ。先生のことだから、きっと嫌とは言わない、だろ? 当然、嫌と言われたところで引くつもりはないが」
三田村の声音が怖い響きを帯びる。和彦は目を瞬きながら、たった今三田村から言われたことを頭の中で反芻する。知らず知らず口元を緩めていた。
「ヤクザらしいやり口だな――と言いたいところだけど、ぼくにとって都合がよすぎないか……?」
「そんなふうに受け止めてくれる先生に、遠慮なくつけ込ませてもらおう」
あっという間に三田村の口調は元に戻り、柔らかな眼差しを向けられる。
三田村はずっと、こういう男だった。物騒な裏の世界に和彦を繋ぎ止めておくための鎖となりながら、その和彦のために尽くして受け止めてくれる。
「……ぼくがどんなに変わっても、あんたはずっと、ぼくの〈オトコ〉でいてくれるんだな」
「先生にもう勘弁してくれと言われても、そのつもりだ」
ふふ、と和彦は声を洩らして笑う。
「――楽しみだ」
囁くようにハスキーな声が応じた。俺もだ、と。
クリニックが休みの土曜日、和彦はゆっくりと休養――とはならず、朝から働いていた。
トラブルからの暴力沙汰で怪我をした総和会の構成員二人の抜糸をしたまではよかったが、急患が出たといって別の現場に連行されたのだ。仲間内のケンカの弾みでという説明を受けたが、ベッドに横たわっていたのは見た目は少年と呼べそうな青年で、脇腹の切創でかなり出血していた。
総和会に名を連ねる組の組員とのことで、二十歳だとは言われたがかなり怪しい。ただ、全身に刺青が入った姿は、未成年・成人に関係なく、いかつい。
意識が朦朧とした状態でも、物騒なうわ言を呟き続けているのが、病院に連れて行けない理由なのだろうと、頭の片隅で推測しつつ処置をした。ただ、組員は一時かなり危険な状態だった。電話で様子を聞いたときに輸血パックの手配を頼んでおかなかったらどうなっていたか。紙一重という状態を医者の立場で味わった和彦は、緊張から貧血を起こしかけたぐらいだ。正直、手に余る患者だと言ってもよかった。
もっと経験豊富な医者にも駆けつけてほしいと頼んだ言葉が、お守りのようになっていた。
なんとか容態が持ち直し、駆け付けた他の医者にバトンタッチして外に出たとき、安堵からへたり込んだぐらいだ。このとき、時刻はとっくに昼を過ぎていた。
とにかく休みたいと自宅にマンションに戻る。冷や汗でぐっしょり濡れた服を着替えてから、シャワーを浴びる気力も体力もなく、ベッドに倒れ込む。指先が微かに震えていた。ここ最近、毎日がハードすぎないかと思ったが、こんな生活を選んだのは他でもない和彦自身だ。
さすがに今日はもう、どんな依頼が来ても受けられないし、そもそも外出をしたくない。和彦は手を伸ばし、その辺りに放り出したスマートフォンをたぐり寄せて電源を切る。メッセージの通知音も耳に入れたくなかった。
頭の中で、今日の術技が繰り返される。自分にできる限りのことはしたが、胃が締め上げられるような緊張感を味わうと、次こそ取り返しのつかない失敗をしでかしてしまうのではないかと怖くなるのだ。ここまで、そんな気持ちを一つ一つ踏み潰すようにして進み続けてきたが、きっとこの気持ちがなくなることはないだろう。だから臆病で慎重でいられる。
仕事のことを意識から追い払おうと四苦八苦しながら目を閉じ続けていると、またじっとりと冷や汗をかいていた。
ふいに、投げ出していた右手を取られてぎょっとする。目を開けた先に、なぜか賢吾が立っていた。
「――どうしてこんなに手が冷たいんだ」
開口一番の問いかけに、咄嗟に声が出なかった。
「妙な寝方をしてるから、息が止まってるのかと思ったぞ。スマホも繋がらないし」
「……さっきまでの仕事が大変で、緊張したんだ。それがまだ解けなくて……」
もぞもぞと身じろいで和彦が起き上がろうとすると、賢吾に手を差し出される。遠慮なく掴んで引っ張り起してもらった。すかさず頬や首筋を撫でられる。
「顔色もよくない」
「いや、軽い貧血を起こしただけで、今はもう全然平気――」
ふうっ、と息を吐き出した賢吾が腕を組む。ここで初めて、賢吾のサマーセーターとチノパンツというラフな格好に気づき、今日は仕事は休みのようだと思い至った。
鋭い眼力で圧をかけられ、またベッドに倒れ込みそうになる。和彦は小さな声で必死に言い訳をするしかなかった。
「本当に、平気なんだ。ただ疲れて横になってただけで……。ああ、昼を食べてないから、ちょっと低血糖かもしれない……けど、間違っても息が止まるようなことはないから」
「お前は、放っておくと、勝手に弱ってそうな印象が強すぎる」
さすがにそこまではと言いかけて、まだ賢吾が怖い目を向けてくるので、やめておいた。
「心配して、わざわざ来てくれたのか?」
「仕事を終えたあとのお前が、いつになく疲れきっていたと報告を受けてな。――ここのところ、忙しすぎたか」
和彦は苦笑いを浮かべて首を横に振る。
「その前に、ゆっくり過ごしすぎた。久しぶりの平常運転で、体がまだ慣れてないだけだ」
仕事が忙しくて目を回すなど、社会人の大半は経験しそうなことだ。少し過保護すぎだと思うが、わざわざ駆けつけてくれた賢吾の行動が嬉しくないわけではない。それどころか――。
賢吾がベッドに腰掛け、和彦の肩を抱き寄せてくる。素直に身を任せると、首筋に顔が寄せられた。
「シャワーを浴びてないから、汗臭いと思う……」
「なら、俺がよく知っている匂いだな」
賢吾の腹に拳を軽く入れてやった。
「――……仕事以外で、気にかかることがあるんじゃねーのか」
魅力的なバリトンが耳に注ぎ込まれる。和彦は間近から賢吾の目を覗き込んだ。
「南郷から無理難題でも――」
「大丈夫。あの人との問題は、たぶん片付いた」
ほお、と賢吾が声を洩らし、両目に冷たい光を宿す。
「どんな問題があって、どう片付いたのか、気になるな」
「これについては、あんたは知らなくていい」
「それは……おもしろくないな。俺のオンナが、俺の気に食わない男と一緒に隠し事をしてるってのは」
やはり南郷のことをそんなふうに思っているのかと、賢吾の声が怖い響きを増していく中、まずそれが気になった。和彦としても、別に南郷の好感度を上げてやろうなどとお人好しなことは考えていない。
賢吾の目を見据えたまま噛み締めるようにゆっくりと告げる。
「あんたがぼくを心配するように、ぼくはあんたの心配をしている。特にあんたの場合、立場が立場だ。今この瞬間のことじゃなく、この先――ずっと何年も先も、誰も付け入る隙がないぐらい盤石の組織の中心にいて、ぼくを守ってもらわないといけないからな」
それが、和彦を物騒な世界に引き込んだ賢吾の責任の取り方だ。
一瞬、怪訝そうに眉をひそめた賢吾だが、試すように問いかけてきた。
「組織というのは、どこのことを言ってるんだ?」
「……あんたが、自分がいるべきだと思う組織」
賢吾が乾いた笑い声を洩らす。
「恐ろしい奴だな。俺の度量を計ろうとしているのか」
「恐ろしい大蛇みたいな男に言われたくない。ぼくはただ、安全に安穏と暮らしたいだけだ。あんたの庇護下で」
「……可愛いオンナにそんなふうに強請られると、な……」
どこまで本気で言っているのか、賢吾は目に見えて機嫌がよくなり、和彦の肩に回された手に力が込められた。
「ここに来たのは、お前を心配したというのもあるが、ただ顔が見たかったからだ。クリニックを再開したばかりで慌ただしいお前に、俺なりに気を使ったんだぜ。本宅に呼びつけなかったし、部屋にも押しかけなかっただろ? 長嶺の男は〈待て〉ができないと思われたくねーからな」
和彦は、賢吾の息遣いがかかる耳がじわりと熱くなるのを感じながら、そっと身をすり寄せる。
「俺の知らないところで、あまり性質の悪いオンナになってくれるなよ。お前は自分を、庇護が必要な弱い存在だと言い張るだろうが、実際のところは、かなりのタマだ」
「それは……、褒めてくれてるのか?」
「褒めてるぞ」
そうは聞こえないんだがと、和彦は首を傾げる。
「だからこそ、余計なことを背負い込む。いや、そこは、お前の持ってる優しさと甘さのせいだな」
「ぼくが甘いのは否定しないけど、優しくはない。だけど……、自分が背負い込むものは、選んでるつもりだ」
「怪しいもんだが、まあ、信じてやろう」
何様だと、和彦は噴き出してしまう。賢吾もふっと表情を和らげ、抱いた肩をポンッと軽く叩いてきた。
本宅で笠野に作らせたというサンドイッチを和彦が食べている間に、賢吾はバスタブに湯を張り始めた。普段はあまり使わない入浴剤をいくつか出してきてテーブルに並べると、どれがいいかと和彦に選ばせる。そして、食事を終えたタイミングでバスタブに放り込み、ついでに和彦も放り込まれた。
「ゆっくり温まってこい」
そんな言葉とともに。
わけがわからないと呟きながらも、他人が準備してくれた風呂にはありがたく浸からせてもらう。
全身を弛緩させ、ぼんやりと天井を見上げる。発汗作用のある入浴剤だったらしく、いつも以上に汗が噴き出してくるが、それが気持ちいい。
そういえば、ここ何日かはゆっくりと入浴する時間が惜しくて、ほぼシャワーで済ませていた。
「不精を見抜かれたか……」
風呂の準備をしてもらったこと以上に、長嶺組組長をたっぷり待たせるという贅沢を味わいながら、和彦は時間をかけて全身を洗う。最後に冷たい水を浴びてさっぱりしてバスルームを出ると、なんと替えの部屋着まで用意されていた。
「至れり尽くせりだ」
ダイニングのイスに腰掛けた和彦は、グラスで差し出された水を飲んで吐息を洩らす。賢吾は目の前でニヤニヤしていた。
「……やけに今日はサービスがよくて、なんだか怖いんだが……」
「俺はいつでも、お前にだけはサービスがいいだろ」
「そうだったかなー」
「物忘れがひどいのは、まだ疲れているせいだな」
白々しいことを言いながら賢吾はさっとドライヤーを取り出し、和彦の濡れた髪に温風を当て始める。髪を掻き乱していく指の動きが気持ちよくて、ますます体から力が抜けていく。
「――……あんたこそ、忙しいんじゃないのか。ぼくが倒れても有能な人材が揃ってるからなんとかなるだろうけど、あんたの場合はそうもいかないだろ。しっかり休んでもらわないと、ぼくが組員たちから恨まれる」
「俺が忙しいと、どうして思うんだ」
いつでも忙しそうにしているだろうと返すのは簡単だったが、和彦は自分の言葉を改めて考えてみる。なぜ、今の賢吾は忙しいはずだと思ったのか。
「ああ……。最近、いろいろ聞かされて、あんたは大変だろうなと……。組や総和会の仕事に加えて、伊勢崎組に、北辰連合会のことも気にかけてるようだし、本宅では稜人く……稜人を迎え入れる準備もして、あと、ぼくのおじい様のことで気も使ってくれた。他にぼくの知らないこともたくさんあるだろうから、それも含めて忙しいんじゃないかと」
「忙しいふりをしていると、お前が優しくしてくれるというわけだな。よし、これからも、お前の前では忙しいふりをしておこう」
そういうことにしておけと、言外に賢吾は言っている。食えない男だなと、和彦は曖昧に頷いておく。
賢吾としては、日ごろの活動について和彦に知られたくないのだ。忙しいのか暇なのか、それすら察してほしくない。別の場所に誰か囲って楽しんでいるのではないかと邪推してもいいところだが、和彦は漠然と、慎重に身を潜めて、無感情に獲物の動きを探る大蛇の姿を想像していた。
「……ぼくと出会わなかったら、あんたの周りの人間関係は、多少はすっきりしてたのかな」
ほとんど独り言のような呟きだったが、ドライヤーを使っていてもしっかり賢吾の耳には届いたようだ。
「考えるとゾッとするな。俺はどれだけ、つまらん毎日を過ごすことになってのか。そのくせ、面白みのない厄介事だけは背負わされてたはずだ」
「どうだか。案外、華やかな私生活を送ってたかも。なんといっても、あんたはモテる。女からも、男からも」
「それは初耳だ」
おどける賢吾だったが、髪を乾かし終えたところで真剣な口調でこう言った。
「お前と出会わないということは、ありえなかっただろうな。オヤジとお前の父親が知り合いだったんだから、いつか、どこかで俺たちの縁は繋がった。そして絶対、俺はお前に惚れた」
急に気恥ずかしさに襲われて、慌てて和彦は立ち上がる。賢吾はニヤリと笑った。
「それじゃあ、次はどうやってお前を癒してやろうかな。――何かリクエストはあるか?」
「いや、特には……」
「よし、マッサージをしてやろう。何日か前に首を痛めてたようだしな」
「あれは寝違えただけで、もうよくなった――」
今日はやたらサービス過剰な賢吾に、半ば強引に寝室に連れ込まれ、ベッドに放り出される。
和彦がバタバタと暴れていたのはわずかな間だった。うつ伏せにひっくり返された体に馬乗りになられると、もう抜け出す術がない。
「……あんた、マッサージのやり方なんて知ってるのか? 素人が迂闊に揉み解しなんてやったら、かえって筋や筋肉を痛めるんだからな」
「そこまで本格的なことはやらねーよ。俺だって、お前を壊したくない」
人の背に乗っかって恐ろしいことを言うなと、和彦は呆れてため息をつく。
おずおずと体の力を抜くと、まず賢吾の手が肩にかかる。すかさず指摘された。
「肩、凝ってるぞ」
ぐっ、ぐっと肩を揉まれて声が洩れる。最初は少し痛いと感じたが、次第にその力加減が心地よくなってくるから不思議だ。首の付け根は優しく揉まれ、髪の付け根をまさぐられたときは、背筋にゾクリと疼きが駆け抜ける。
投げ出した両腕はおろか、てのひらまで丹念に揉まれたところで、賢吾の重みが移動して、今度は腰に手がかかる。
「誰かにしてやってたのか? 上手すぎるんだが……」
「気になるか?」
顔は見えなくても、この瞬間、賢吾がニヤニヤしているのは容易に想像できた。
「大事で可愛いオンナを労わろうという気持ちが、伝わってるんだろうな」
聞こえなかったふりをして返事をしなかったが、かまわず賢吾はマッサージを続ける。腰を揉まれるだけでなく、背は指で押さえられながら、筋肉を解すように丁寧に動かされる。
全身を賢吾に委ねきったところで、あくまで世間話のようなさりげなさでふいに言われた。
「――で、南郷と情を交わしたのか?」
鋭い刃を喉元に突き付けられようで、和彦は一瞬息を詰める。相変わらず賢吾の手は動き続け、そこに乱暴な気配は一切ない。
じっと身を硬くしていた和彦だが、黙り込んでいても仕方ない。
「交わしてないが、あの男のことは少しわかった」
「それは、知らなきゃいけないことだったのか?」
「結果として……、知ってよかったと思う」
ふうっ、と息を吐き出して、賢吾が腿をさすり始める。
「自分のオンナが、俺が気に食わない男と情を交わすのと、理解を深めるのと、どっちがマシなんだろうな」
「……ちょっと意外だ。あんたが、『気に食わない』と率直に言うなんて」
「あの男はお前に妙に執着してる。……年甲斐もなくガキみたいなことも言いたくなる」
執着の意味合いが、賢吾が認識しているものとは違っているのだが、言うわけにはいかない。和彦は、南郷と同じ目的を持って手を組むことにしたのだから。これは情ではなく、利害の一致という。
前触れもなく、足の裏をぐっと指の腹で押されて悲鳴を上げる。
「おい、今、南郷に理解を示した顔をしたな」
「うつ伏せになってるのに、あんたからは見えないだろっ」
「でも、しただろ」
和彦が返事に詰まると、賢吾はベッドから下りてしまう。さすがに逆鱗に触れたかと、和彦は突っ伏したまま動けない。賢吾が暴力に訴えてこない男であることは確信しているが、そんな手段を使うまでもなく、和彦を屈服させるのは簡単なはずだ。
「――お前を先に風呂に放り込んでおいて正解だったな」
寝室に戻ってきた賢吾がやけに楽しげな口調で言う。仕方なく顔を上げると、なぜか賢吾の手には新聞紙と爪切りと爪やすりがあった。反射的に飛び起きてベッドの反対側に逃げようとして、あっさり足首を掴まれて引き戻され、さらにはベッドから引きずり下ろされた。
「そう顔を引き攣らせるな。何もイジメるわけじゃない。爪を切るだけだ。――お前の足の爪を」
「どうして……」
「今さっきマッサージをしていて、気になった」
爪ぐらい自分で切ると弱い口調で訴えるが、意味ありげな笑みを浮かべて賢吾にこう言われてしまった。
「いつだったか、お前に切ってもらっただろう。あれは最大級のお前への信頼の表れだ」
「……そんなふうに、言われたら、わかったと言うしかないだろ……」
最初から勝負は見えていた。
鼻歌でも歌い出しそうな上機嫌ぶりで、賢吾が足の爪に触れている。和彦は、自分の足の爪ではなく、賢吾の顔を見ていた。
ベッドに腰掛けた和彦に対して、賢吾は床に座り込む姿となっている。やや高い位置から賢吾を見下ろす格好となっており、この角度は新鮮だ。
「……改めて言うまでもないけど、ぼくは痛いのは嫌だからな」
「俺も、大事で可愛いオンナを痛めつける趣味はない。まあ、ときどき、妙な気分になるときはあるが――」
「おい」
冗談だと、賢吾が低い笑い声を洩らす。親指の爪に爪切りが当てられるとさすがに身が竦み、自分の足先を凝視する。これは本能的なものなので、信頼とは別の話だ。
パチン、パチンとゆっくりと爪が切られていく中、和彦は賢吾の足の爪を切ったときのことを思い返す。あのときの賢吾は身構えている様子はなく、ひたすら悠然としていた。怖くなかったのだろうかと、今になって聞いてみたくもある。
「深爪にはしないでくれ」
「わかってる」
応じる賢吾の声は笑いを含んでおり、何が楽しいんだかとやや呆れる。
丁寧に爪やすりをかけては、賢吾は何度も爪を撫でて感触を確かめている。ついでとばかりに足のマッサージまで始め、最初はただくすぐったいだけだったが、次第にそわそわとして落ち着かなくなってくる。足の指と指の間をまさぐられる感触は、慣れていない分刺激が強い。
「……おもしろがってるだろ、あんた」
「初心な反応をするお前が可愛くてな」
「三十過ぎた男に、いい加減、『可愛い』はないだろ……」
「覚悟しろよ。四十を過ぎても、五十を過ぎても言ってやるから」
ただの軽口だとわかっていながら、胸をつかれた。
最後の小指の爪まで切り終えた賢吾が、満足げに和彦の足先を撫でる。代わりに和彦は、賢吾の頭を撫でる。
「ふふ、今のところぼくだけかもな。長嶺組組長の頭を堂々と撫でられるなんて」
「ご利益があるぞ」
ベッドにひっくり返って和彦が爆笑していると、当然のように賢吾がのしかかってくる。予想外なことに、真剣な表情をしていた。
「――……総和会の闇に呑まれるなよ。この世界の連中は、俺も含めて基本的にイカれてる。それを煮詰めたのが総和会にいる奴らで、オヤジや南郷は最たるものだ」
和彦としては南郷とのことを煙に巻いたつもりだったが、やはり賢吾には通用しなかったようだ。怒ってはいない。ただ和彦を心配しているのだ。
賢吾の首に両腕を回してしがみつく。
「いつかはあんたが呑み込まれる闇なら、ぼくは眺めるだけなんてできないな」
「好奇心が強いのも困りものだ」
「本当に、自分でもそう思う……」
低く笑い声を洩らした賢吾に唇を塞がれる。この瞬間、二人を取り巻く空気が、濃厚な、むせるような甘さと妖しさを孕む。
唇と舌を吸われながら和彦は、賢吾が着ているサマーセーターの下に両手を忍び込ませる。大蛇の刺青にてのひらを這わせていると、賢吾が微妙な表情で見下ろしてくる。
「……何か、不満そうだな」
「不満というか、たっぷり甘やかしたのに、お前は俺の刺青を撫でているほうが満足げな顔をしているなと思って」
「ぼくを甘やかしたのも、背中に刺青を入れてるのも、あんたじゃないか」
「肝心なところで男心がわかってない」
ときどき妙な理屈を捏ねるときがあるなと、和彦は苦笑する。賢吾のこういうところに、千尋とやはり父子なのだなと実感するのだ。
つき合っているとキリがない。有無を言わせずサマーセーターを脱がせて、賢吾の上半身を露わにすると、ベッドにうつ伏せにする。今度は和彦が背に覆い被さった。オンナの特権とばかりに、間近から大蛇の姿をじっくりと観察する。
「なんだ。俺にもマッサージをしてくれるのか?」
「あんたの頑丈な体にそんなことしたら、ぼくの指のほうがおかしくなる」
剣に巻き付いてこちらを見据える大蛇にゆっくりと指先を這わせる。意地が悪いが、南郷は触れることができない大蛇だと思うと、優越感とも同情ともつかない感情が湧き起こり、それが強い欲情へと変化する。
賢吾の背に顔を伏せ、唇を押し当てる。さらに舌先を這わせ始めると、賢吾に問われた。
「興奮してるか?」
「当たり前だろ。――あんたに触れてるのに」
賢吾がいきなり体を起こしたせいで、和彦は簡単にひっくり返る。そこに賢吾がのしかかってきた。
「お前は、俺を煽るのが上手すぎる」
「……そういう、つもりは……」
「無自覚はもっと性質が悪いぞ」
賢吾によって下肢を剥かれ、敏感なものをてのひらに握り込まれる。性急に扱かれて腰をくねらせるが、強引に両足を開かされて賢吾の視線にさらされると、抵抗の意思は瞬く間に消えてなくなる。
「うっ、あぁ……」
「今日はお前の疲れを癒してやるつもりだったんだが、こういう姿を見せられたら、仕方ねーよな?」
感じやすい先端を指の腹で擦られながら、和彦は軽く賢吾を睨みつける。
「ぼくはなんて答えたらいいんだ」
「心のままに」
ヌケヌケと言い放つ賢吾に呆れたあと、堪らず和彦は笑みをこぼす。唇を啄んできながら賢吾が言う。
「疲れて帰ってきたお前をさらに疲れさせるのは忍びないからな。触るだけだ」
別に構わないのにと思いながらも、賢吾の優しさが嬉しくて、うん、と和彦は頷いた。
この日のクリニックには、由香が差し入れを持って顔を出してくれた。
一足早く夏が来たような涼しげなワンピース姿で、屈託ない笑顔を向けられた和彦は少しほっとする。診察室に入ってもらい問診を行いつつ、世間話をする。このあとは予約も立て込んでいないからこそできることだ。
「元気そうでよかったよ」
ひととおりの質問を終えて和彦がそう言うと、由香は剥き出しの華奢な肩を竦める。明るい栗色の髪が肩の上でさらりと揺れる。カラーコンタクトを装着した瞳は、大きな目をより印象的に見せているが、化粧自体は控えめでごく普通の学生に見える。しかし耳元で揺れるピアスや、胸元でさりげなく輝くネックレス、無造作に扱うバッグなど、どれも間違いなく高級ブランド品だ。
由香は由香だなと、変わらない姿に微笑ましさすら覚える。
「元気だけど、忙しくて。今度、知り合いと一緒にネイルサロンを始めるんだー」
「へえ、ネイル好きだったんだ」
由香の爪はきれいに手入れされて、淡いピンク色をしているが、ラメやストーンがついているわけではない。
「うーん、共同経営者、ってやつで、お店を切り盛りするのは他の人。そもそも、派手な爪って、難波さん好きじゃないんだよね。でも、若い娘が経営しても不自然じゃないからって、ネイルサロンに決まったんだよ」
愛人である由香に過保護な昭政組組長の難波が許可したとなると、事情があるようだ。和彦も表に出せない事情をたっぷり抱えているため、由香からは仲間と認められているのだろう。ちらりと舌を出してから、こんなことを言われた。
「オープンしたら、佐伯先生も来てよ。男の人でも、爪のお手入れきちんとしないと。あと、ここのスタッフの人たちにも声かけて」
今日の差し入れは、しっかり営業活動らしい。クリニックをオープンしたとき、由香には特に気にかけてもらったので、恩返しはさせてもらうつもりだ。
美容外科クリニックで取り扱っている美容液を試してみたいということなので、肌の調子を見てから問題ないと判断する。一回目の施術のあと、次回の予約を入れてから由香は可愛らしく手を振って診察を出ていった。
このあとはのんびりと――暇な時間を持て余していたが、夕方近くなってから、クリニックの電話が鳴り、今からカウンセリングを受けたいと問い合わせがあった。大丈夫だと和彦が頷き、電話を受けたスタッフが相手の名前や年齢、何を目的としてカウンセリングを受けたいかなどを尋ねている。
「――学生さんで、ニキビ跡の治療について相談したい、か」
電話を切ったスタッフから、話した内容を簡単に書き留めたメモを見て、和彦はふむふむと頷く。
「もう近くまで来られているそうです」
「だったら今日最後の患者さんかな」
カウンセリング用のタブレットを準備してから、美肌治療の資料をすぐに出せるよう自分のパソコンでファイルの確認をしていると、来院を告げるベルが鳴る。近くまで来ているということだったが、思っていた以上に早い到着だ。
診察室のドアを開けたままにしていると、応対するスタッフの声に続いて聞こえてきたのは、若い男性の声だった。
和彦は、手元のメモに視線を落とす。予約の電話をかけてきたのは男性で、年齢は十八歳で大学生――。
全身にゾクゾクとする感覚が駆け抜け、反射的に立ち上がる。躊躇していたのはわずかな間で、和彦は診察室から出ると、待合室に静かに歩み寄る。受付カウンターでは青年が立ったまま、初診でお願いするアンケートに記入をしていた。
その青年が、こちらに気づいたようにふっと顔を上げ、まっすぐ和彦を見つめてきた。凛として黒々とした瞳と、意志の強さを表すしっかりとした眉から受ける印象は、清廉。整っているというより、きれいと表現できる顔立ちは変わらず、しかし以前に比べて輪郭がしっかりした気がする。
まるで掛け軸に画かれた若武者のようなシミ一つない肌に、和彦はじわりと微苦笑を浮かべていた。
「ニキビ跡なんて、ないじゃないか……」
和彦の呟きが聞こえたわけではないだろうが、ペンを置いた青年――伊勢崎玲が、清々しい笑顔を向けてきた。
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