この組織の実行力を舐めていたかもしれないと、和彦はやや呆れてため息を洩らす。総和会本部内の寮の土が剥き出しになっていた場所は、短期間で様変わりしていた。
前はなかった飛び石の一つの上に立ち、辺りを見回す。庭ができていた。青々とした苗木が何本も植えられ、陶器製の大きな植木鉢には春らしい花の寄せ植えが。もちろん一つや二つではない。さらには、和彦の身長ほどの高さの木も贅沢に植えられている。庭の中央部分には敷石がきれいに敷き詰められており、テーブルセットを置くことを考慮しているようだ。
「あんたの要望は『野鳥の水飲み場がほしい』だったから、ひとまず水を張った洗面器を置いてある」
和彦の側に立っている南郷がそう言って指さした先には、敷石の上に洗面器が置いてある。
とんでもないことになっていると、和彦は一人うろたえていた。自分が口にした要望はしっかり覚えている。野鳥の水飲み場になりそうな器を置いて、止まり木になりそうなものをちょっと植えてもらえばいいと考えていたことも。しかし今、目の前にある光景は、和彦の想定を何倍も上回って立派だ。
賢吾から、植物園みたいなものを造るかもしれないと言われたときは、冗談としか受け止めなかったが――。
黙り込んでいる和彦の反応をどう捉えたのか、南郷は言い訳するようにこう続けた。
「本部の造園を手掛けている業者に、見目よく、だが多少は野趣を感じさせる庭にしてくれと伝えて、こうなったんだが……。何か足りないものがあるか、先生? 今、山野草の苗も集めさせているから、もっとにぎやかになるはずだ。鳥も、この辺りをちょろちょろ飛んでるのを見かけるから心配するな」
「……ぼく、庭まで欲しいとは言ってないですよ」
「どうせ部屋の窓から見るなら、庭があったほうがいいと俺が思ったんだ。植えた木や草がどんどん成長していくのを見守るのもいい。まあ、そんな余裕があるかどうかはわからんが。土が剥き出しの殺風景な場所に、鳥がやってきても様にならんだろうしな」
はあ、と気の抜けた返事をした和彦は、ちらりと南郷に視線を遣る。きっちりとスーツを着込んでいる和彦とは対照的に、今日の南郷は寛いでいる最中だったのか半袖のポロシャツ姿だ。本部にいてこんな格好でうろつけること自体、南郷の特別な立場を物語っている。
この男が総和会での和彦の後見人に就いたことで、月に一度、本部を訪ねることが決まってしまった。やむなく五月に入ってすぐにこうしてやってきたというわけだ。連休明けにクリニックを再開するので、和彦としては厄介事は早々に片付けておきたかったのだ。
守光は不在だと駐車場で出迎えてくれた吾川に告げられたため、車を降りた和彦はその足で緑の回廊を抜けて寮にやってきた。陽射しも強くなり、少し歩くだけでうっすら汗ばむ陽気だが、ごく限られた人間しか立ち入れない場所を自由に歩き回れるのは、案外気分がよかった。
ただし、南郷と顔を合わせるまでの話だ。今は、じんわりと冷や汗に変わりつつある。
「……想像していたより、遥かにスケールが大きくなっていて、少し……いえ、かなり驚いています」
「でかい番犬数頭飼う環境を整える手間に比べれば、手軽なほうだ。あんたは気にしなくていい」
また気の抜けた返事をしそうになり、寸前で和彦は口元を手で覆う。誤魔化すように、庭を改めて見回し、支柱で支えられている木に歩み寄る。植えられたばかりのようだが、葉は活き活きとしている。一体なんの木なのか気になり、視線で南郷に問いかける。
「それはブルーベリーの木だそうだ。それなりに育ってるものを地植えしたから、意外に早く実がつくかもな。そして、こっちはヤマモモだ。他にも何か植えたと言っていたが、名前は忘れた」
なぜ美味しそうな実が生る木ばかり。そんな疑問を口にする前に、南郷が答えた。
「実が生ると、それを啄みに鳥がやってくるらしい」
「そういうものなんですか」
「そして、鳥に誘われてあんたがやってくる」
なんと応じていいかわからず黙り込むと、鼻先で笑った南郷に促されて寮に入る。スリッパに履き替えていると、今日は南郷が言うところの〈若い連中〉がいるらしく、微かに人の話し声が聞こえてくる。小野寺もいるのだろうかと気にはなりつつ、廊下を左に進む。
南郷の自室に向かう途中にある白い回廊の壁には、前回はなかった写真パネル三枚が間隔を空けて飾られていた。青空の下で陽射しを反射してきらめく明るい海と、夕日でオレンジ色に照らされる海。そして、夜の闇に沈む暗い海だ。
「この写真は……」
「ここに飾るのはなんでもよかった。たまたま安かったから、三枚まとめて買った。――長嶺組長とあんたの連名で贈られたものは、部屋のほうに飾ってある」
実は和彦は、その連名で贈ることになったものについてまったく把握していない。いつの間にか賢吾は画廊で選んだようで、届けさせたと事後報告があっただけなのだ。
賢吾は何を贈ったのかと、ドキドキしながら部屋に入る。さすがに段ボールはすべて片付いており、書棚にはぎっしりの本が詰め込まれ、オーディオセットの配線も済ませてある。きちんと生活感があった。
開け放っている窓から心地よい風が吹き込んでくる。すっかり様変わりした外の景色に目を細めたのは、庭の様子に心惹かれるものがあったからだ。これは確かに、庭に植えた草木を眺めて過ごすのは楽しそうだ。
「先生、紅茶でいいか? ティーバッグだが」
「あっ、はい」
客用のイスは相変わらずないようなので、和彦は自分でエグゼクティブチェアを移動させて腰掛ける。そこでぎょっとした。ちょうど座った場所の正面の壁に、こちらを睨むように見据えている純白の狼がいた。最初は写真かと思ったが、よく目を凝らせば緻密に描かれた絵だ。
「もしかして、これが――」
美しい作品ではあるが、寛ぐ部屋に飾るには狼の眼差しが剣呑としすぎていないかと感じる。しかし南郷のほうは、本心かどうかはともかく、満足しているようだ。和彦に紅茶を出してソファに腰掛けた南郷の背後に、白狼が控えていることになる。
「俺が座る位置からだと、俺の背後を守護してくれているようだと思わないか?」
薄い笑みを浮かべての南郷の言葉に、和彦は曖昧に頷いておいた。
「あんたと、庭に植えた草木についてのんびり話すつもりだったが、そういうわけにもいかなくなった」
わざわざ缶入りのクッキーまで出してから、そう南郷が切り出した。
「あんたの周りを飛ぶ羽虫――伊勢崎組の人間が、あんたと接触しようとしたらしいな。うちの第二の人間も役に立つだろう?」
ズバリと伊勢崎組の名を出され、和彦は反射的に顔をしかめた。
「……正確には、伊勢崎組の組長の息子さんです」
「罪深いオンナだな。男子高校生を悪気なく骨抜きにするとは。今は大学生だったか」
努めて無表情を取り繕い、紅茶を啜る。そんな和彦をじっと見つめていた南郷は、短く息を吐いてから悠然と足を組んだ。大柄な男だ。手足が長いせいで、動作の一つ一つが、まるで肉食獣が身じろぎしたように圧を放つ。和彦は本能的な怯えから息を詰める。
「伊勢崎組がこちらへの進出を図っていると、最初はそんな報告だったんだ。総和会のデータベースに伊勢崎組が載っていたのは、たまたまだ。御堂絡みでな」
南郷の口調がわずかに下卑た響きを帯びる。和彦をまだしっかりと見つめているので、わざとだろう。
「ちょっとした商売に乗り出したいという程度なら、御堂の顔を立てて見過ごすこともやぶさかじゃなかったんだがな……。さすがに、北の大物ヤクザが動くには、それなりの理由があったようだ」
「何か、わかったんですか……?」
「伊勢崎龍造という男が何を考えているかはわからん。表向きは、本当にこちらで商売をやりたがっているようだからな。だが、釈然としない。俺だけじゃなく、オヤジさんや長嶺組長も同じはずだ」
そこで、龍造が顧問を務める北辰連合会について調べたのだという。わざわざ北辰連合会の本拠地がある東北にまで人を遣ったということで、総和会の本気ぶりは伝わってくる。
「棲み分けができているんだ。総和会と北辰連合会は。境界線を守って、友好的とは言わないが、揉め事は極力避けてきた。そういう関係を保つために肝要なのは、境界線の向こうにいる相手を見て見ないふりをすること。それが一番トラブルを起こさない。――さて、ここで伊勢崎龍造の存在だ」
そこまで言って南郷は一度ソファから立ち上がり、薄いファイルを手に戻ってくる。差し出されて一応受け取りはしたものの、これをどうすればいいのかと、和彦は困惑する。
「中に目を通してくれ。北辰連合会についてあんた用にまとめたものだ。あまり深入りさせるのもどうかと思うが、何も知らないままあんたをふらふらさせるほうがリスクがでかい」
情報を得るのは、力を持つ男たちはともかく、個人ではまったく無力の和彦にとっては喜ばしいことではない。男たちに庇護される前提で、裏の世界の深みにますますはまり込むのだ。いまさらではあるが。
顔を強張らせる和彦に対して、南郷は意地悪く唇の端に笑みを刻む。
「無理に読めとは言わないが。怖いことは書いてない」
南郷を睨みつけてからファイルを開く。いきなり龍造の顔写真が目に入った。そして経歴と。見慣れない組の名などが書いてあるが、前に綾瀬から簡単な説明を受けていたこともあり、漠然とながら人となりは頭に入る。さすがに御堂との関係にまで言及している文章には、眉をひそめたが。
龍造以外に、北辰連合会の残り二人の顧問の情報も載っており、皆強面だなと、顔写真を見て思ってしまう。ちらりと視線を上げると、まだ南郷は和彦を見ていた。
「伊勢崎組長の人となりについては、意外にこちらでも知られている。若い頃はかなりのやんちゃだったようで、一時地元から叩き出されて、青道会が客分扱いで預かってたことがあるおかげだ。他二人の顧問も、調べた限りではまあまあ派手な経歴だな」
この場合南郷の言う派手な経歴とは、前歴とその罪状のことだ。和彦が現在顔を合わせている男たちも似たようなものなのだろうが、こうして文字の羅列で見せつけられると、自分が今いる環境について改めて思い知らされる。
「伊勢崎組長は、昔はともかく今は北辰連合会での穏健派に分類される。人当たりがいいから、組織の中で慕っている人間も多いようだ。で、当然のことながら派閥ができている。顧問それぞれを旗頭にしてな」
「……北辰連合会の会長……でいいんですかね。トップの人は?」
「会長という役職はない。顧問三人による、まあ合議制と言っていいかな。昔はいたんだが、顧問同士が手を組んで射殺したという事件が二度続けてあったせいで、なくなった。その代わり、顧問が引退して名誉会長という肩書きを持つようになるが、一切の権限はないし、組織運営に口出しできない。誰だって殺されたくないからな。きちんとそのルールを守っているようだ」
「なんだか、怖いところですね」
和彦がぽつりと洩らすと、急に南郷が声を上げて笑う。
「感覚が麻痺してるな、先生。世間じゃ、〈うち〉もそれなりに怖いところなんだが」
そうでしたとぼそぼそと小声で応じた和彦は、誤魔化すようにファイルに視線を戻す。南郷の説明を受けながらファイルに最後まで目を通したところで、ずばりと問いかけた。
「――それで、本当はぼくに何を伝えたいんですか?」
南郷が手を出してきたので、読み終わったばかりのファイルを返す。自らもファイルを開きながら南郷は、世間話でもするような口調で言った。
「はっきりとした証拠があるわけじゃないが、おそらく、北辰連合会は中で揉めている。顧問二人が、残りの一人の追い落としを狙っている――」
意味ありげな南郷の視線と物言いで、さすがに和彦も察する。
「残りの一人というのが、伊勢崎組長なんですね」
「こっちで商売をやるだなんだと言っているようだが、それは北辰連合会に向けた理由で、本当のところは、自分の身と息子の安全を考えてのことじゃないかと俺は考える。こっちで大物と縁を結べれば尚いい。御堂がいるからな。あいつの伸ばしている触手で誰かは手繰り寄せられる」
大物と接触するのにちょうどいい駒が、和彦だったということか。当然賢吾も、御堂の動きから何かしら察していたはずだ。あるいは、すでに情報提供を受けている可能性もある。
「オンナとして、かつての情人に対する義理か、いまだに深い情があるのか、御堂は伊勢崎を切れなかった。……いや、そんなタマじゃないな。厄介事を呼び込むとわかっていて、あえて、か? 総和会を揺さぶるには、伊勢崎龍造と北辰連合会のいざこざが使えると考えているのかもな。こっちに北辰連合会が出張ってくる可能性もあるだろうしな」
「……御堂さんを警戒して、どうにかするとかは考えないんですか?」
「先生は、御堂をどうにかしてほしいのか?」
「違いますっ。ただ……、ぼくが知るこの世界の人たちは、寛容だとか懐が深いとかはまったく思わないですけど、険悪なようでいて、その相手を切り捨てたり、遠ざけないのが不思議で」
その姿勢が一番顕著なのが守光だ。御堂だけでなく、自分に反感を持っている節がある組ですら、総和会でしっかりと抱えている。
「切り捨てるのは簡単だが、それをやると、総和会の外で好き勝手に動かれて、腹を読めなくなる。だったら、しっかりと首輪をつけて近くに置いておくほうがいい」
ふいに沈黙が訪れる。話すべきことは話したとばかりに、南郷は鷹揚にソファの背もたれに体を預け、薄ら笑いを浮かべて和彦を眺めてくる。警戒すべき空気になったことを感じて、和彦はさらに緊張する。
南郷と二人きりで会って、何事もなく済むと考えるほど能天気ではないつもりだ。しかし、だからといって受け入れられるものではない。
南郷にその気がなければ――という希望は、次の発言であっさり一蹴された。
「さて、先生、外が明るいうちは嫌だというなら、夜までここで自由に過ごすか? 俺はその間本部の建物に行っててもいいし」
顔が熱くなってくる。和彦は必死に睨みつけるが、当の南郷は涼しい顔だ。
「ぼくは……」
なんとか言葉を絞り出そうとしたとき、和彦のスマートフォンが鳴った。南郷をうかがい見ると、軽く手を振られる。和彦は持ってきたビジネスリュックからスマートフォンを取り出し、表示された名を見て驚く。俊哉からだ。
思わず立ち上がり、南郷に背を向けて窓辺に移動する。
「もしもし、何かあった?」
『たった今、総子さんから連絡があった』
俊哉が言葉を一旦切る。
『――正時さんが亡くなったそうだ』
そう遠くないうちにと、正直ぼんやりと予期していた。ただ、年明けに対面したときから容体は落ち着いてきており、桜の花を見ることができたと総子から連絡を受けていたため、少しだけ楽観する気持ちも湧いていた。それだけに――。
立ち尽くす和彦に、異変を察したのか南郷に背後から呼びかけられる。
「先生、どうした?」
和彦は何も言えないまま、震えを帯びた息を吐き出した。
俊哉からの一報を受けて、和彦は自然と湧き出そうになる涙を奥歯を噛み締めて堪えると、なんとか南郷に手短に事情を説明した。そこからあとは早かった。和彦が相談するより先に、南郷は帰宅のための車を手配してくれたのだ。
自宅マンションに帰りつくと、ぼんやりする間も惜しんで賢吾に連絡をする。電話は繋がらなかったため、ひとまずメッセージを送っておいた。
俊哉からは、通夜と葬儀に参列するよう言われている。俊哉や綾香は今日はまだ仕事があり、それを片付けてからの移動になるという。英俊については何も言われなかったため、和彦から問うことはできなかった。
部屋を行き来しながら、通夜と葬儀に参列するために必要なものをテーブルの上に並べていく。当然、和泉家に宿泊する準備も。
「ああ……」
総子に連絡したほうがいいだろうかと、咄嗟にスマートフォンを手にしたものの、悲しみに暮れながら正時を送り出す準備をしている祖母の姿を想像すると、今は自分などに時間と気を使ってほしくないと思った。和彦はスマートフォンを置くと、クローゼットからガーメントバッグと喪服一式を出してくる。
ボストンバッグに荷物を詰め込みながら、袱紗はあるものの、肝心の香典袋の買い置きがないことに気づいた。どうしようかとその場でうろうろしてから、一旦イスに腰掛ける。和泉家に向かう道中で買えばいいのだが、では移動をどうするかだ。いっそのこと両親に同行するという手もあるが、あまり気は進まない。
新幹線がもっとも早いのは確かで、在来線との乗り換えに合わせて時間を決めなければならない。駅構内で現金を下ろして、ついでに必要なものも買うことにした。
現実的で事務的な準備をしながら、ふとした瞬間に、最後に正時と会ったときの光景が蘇る。途端に嗚咽が洩れた。
総子の話では、幼い頃の和彦をずいぶん可愛がってくれたそうだが、そのときの記憶はほぼ残っていない。和彦にとっての正時は、年明けにベッドの上で酸素マスクをつけて横たわっている姿がすべてと言ってもいい。それでも、自分でも不思議なほど悲しかった。交流を持たなかった空白の時間を痛切に悔やんでいた。
ぐすぐすと鼻を啜っていると、スマートフォンが鳴る。相手は南郷からで、出ないでおこうかと逡巡したものの面倒なことになりそうで諦める。
『先生、まだマンションにいるな?』
「……はい」
『今からそっちに行く。オヤジさんから香典を預かったんだ。……あんたの亡くなった祖父君に、昔世話になったらしい。だから、持っていってくれ』
守光が昔、俊哉からの依頼を受けてトラブル処理にあたったことは知っている。ただ俊哉の話では、和泉家とは関わらせなかったはずだ。それが、正時に世話になったというのは――。
つい考え込んでいた和彦は、電話の向こうから呼びかけられて我に返る。今は過去を探る暇はなかった。
『一時間後ぐらいでどうだ?』
「はい、大丈夫です」
急いで出発したいところだが、守光からの香典だと言われれば断ることはできない。新幹線は夕方の時間帯に発つものに乗り、乗り換えがうまくいかないようならタクシーを使えばいいと、即座に判断していた。
マンション近くまで来たらもう一度連絡してほしいと告げて電話を切ると、数分も経たないうちにまた電話がかかってくる。今度は賢吾からだ。やはり香典を持っていけという用件で、守光から受け取るのとはわけが違うため返事に困る。すると、和彦がためらう理由を汲み取ったのか、賢吾はこんなことを言った。
『昔、お前の父親を通して和泉家の厄介事の処理にあたったのは、〈長嶺組〉の人間だった長嶺守光だ。そこで結ばれた縁なんだから、長嶺組組長からの香典を持っていけ。新幹線を使うなら、駅までうちの車で送っていくし、乗車するまで付き添うようにする』
「……会長と、そういうことで話がついたのか?」
『お前の祖父君だ。知らん顔はできん。できることなら、和泉の家まで直接送り届けたいが、さすがにこんなときにヤクザがうろつくのは迷惑がかかる』
おおっぴらに名を出すことはできない父子からの香典だが、総子に渡せば適切に対応してくれるだろう。承諾した和彦は、さきほど南郷に告げたのと同じ内容を告げて電話を切る。
そして――。和彦が作業を再開したところで、電話がかかってきた。
自宅マンションのエントランスのやや奥まった場所には、来客用のロビーがある。和彦は共用スペースに置かれたソファに腰掛けてぼんやりしていた。ここで暮らし始めて二年ほどになるが、ロビーを使うのは初めてかもしれない。
和彦はガラスの向こうのアプローチに目を向けながら、さきほど部屋で詰め込んだボストンバッグの中身を一つ一つ思い返していく。ふと、筆ペンが必要なことに気づき、あとで買うのを忘れないようスマートフォンのメモに打ち込んでから、メッセージアプリに触れる。祖父が亡くなったため、数日ほど連絡が取りにくくなることを誰かに伝えておくべきかと思ったのだが、すぐにその必要はないなと思い直す。今和彦とつき合いのある人間の大半は長嶺組か総和会と繋がっている。心配するまでもなく誰かが事情を説明してくれるだろう。
さきほど立て続けにかかってきた三本の電話のおかげで、和彦の当初の予定は吹っ飛んだ。自分はいつでも男たちの都合で振り回されるのだと、自嘲と皮肉と、否定できない感謝の気持ちから、微苦笑を浮かべていた。おかげで、正時の死を知らされて日常から切り離されたようだった感覚が、なんとか引き戻された。
見覚えのある車がアプローチに滑らかに入ってきて、和彦は立ち上がる。すぐに車から降りてきたのは、神妙な顔をした千尋だった。あとに組員が続く。
「このたびは――」
ロビーにやってきて和彦の前に立つなり、千尋がお悔やみの言葉を述べ始める。これまで、長嶺組の跡目として義理場に何度も顔を出してきたのだろうことをうかかがわせる立ち居振る舞いだ。
賢吾から預かったという香典を受け取ったところで、千尋が微妙に表情を崩し、小声で問いかけてきた。
「で、なんでここなの? 俺、とにかく和彦に渡せばいいからって、詳しく事情も教えてもらわないまま送り出されてさ。それはいいんだけど、なんでロビーなの?」
本当に最低限の情報だけを聞かされて、慌ててやってきたようだ。予定では、そろそろ〈彼ら〉もやってくるはずだ。
「お前だけなら、新幹線の時間まで少し余裕があるから、部屋に上げられたんだけど……」
「組の車で駅まで送るって話も、なしになったんだろう? 一体何があったの」
矢継ぎ早に質問してきた千尋だが、悠然とアプローチを歩いてくる男の姿に気づき、眉をひそめた。
「ああ……。そういうこと。あの男を部屋に上げたくなかったわけか。俺だけ部屋に上げて、あいつを――南郷を玄関先で追い払うなんてできないもんね。今の和彦の立場だと」
「お前の察しがよくて助かるよ」
エントランスに入ってきた南郷から目を離さないまま、和彦は小声で応じる。千尋がやってくる前に、今近くまで来ていると連絡があったのだ。
和彦の傍らに立つ千尋に向けて、南郷が仰々しく頭を下げる。一瞬苦い顔をした千尋だが、挨拶で応じた。
「先生、大変なときに、慌ただしいことになって申し訳ないな」
和彦に向き直り、南郷がそう切り出す。
「いえ……。こちらこそ、お気遣いをありがとうございます」
南郷から香典を受け取ったところで、沈黙が訪れる。用が済んだからと、すぐに場を辞すつもりはないようだ。和彦はひとまず二人にソファを勧める。
「先生、出発の準備は?」
「和彦、新幹線の時間は? 駅まではタクシーなの?」
千尋と南郷から質問をぶつけられて、言葉を濁す。心配なのでやはり誰か付き添わせると言い出しかねないほど二人とも真剣だ。
タイミングがいいのか悪いのか、アプローチに新たな車が入ってくる。千尋と南郷が同時に気づき、素早く立ち上がった。当然、組員たちも反応している。
車から降りた人物は、ガラス越しに和彦に向けて軽く会釈をすると、颯爽とした足取りでエントランスからロビーにやってこようとして、組員に止められる。
「大丈夫だ。その人は、和泉家がつけてくれている人で――」
「どうも。九鬼と申します」
あらかじめ用意してあったのか、素早く名刺を取り出した九鬼は、有無を言わせず組員に押し付ける。
今日の九鬼は薄手のニット姿で、肘の辺りまで袖を捲っていた。おかげで、手首まで入った刺青がはっきり見える。自分は同類だと、この場にいる男たちに誇示しているようだ。
千尋は鋭い視線を九鬼に向けたまま、ぼそりと洩らした。
「ウナギ男だ……」
九鬼は、芝居がかった動作で一同を見回してから、大きくて薄い唇にニッと笑みを浮かべる。そして千尋と南郷にも名刺を渡した。
「総和会と長嶺組の方が揃ってらっしゃるので、面倒がなくていいですね。説明が一度で済む。――これからわたしが和彦さんに同行して、和泉家に向かいます。滞在中の護衛についてはご安心を。わたしの他に、屈強なのも連れていきますから」
すらすらとそう言った九鬼は、二人を――主に南郷を見据える。千尋は物言いたげにこちらを見たので、和彦は頷いて見せた。
「そういうことになった。……九鬼さんは、ぼくの祖父母とつき合いの深い人で、通夜と葬儀の準備も手伝うそうなんだ。だから一緒に向かわないかと声をかけてくれて。おばあ様も、そのほうが安心だと言ってるそうだし」
この程度の祖母からの要望なら、できる限り叶えたかった。
「そういうことなら、仕方ないよね。俺たちも、和彦に無茶言うつもりはないし。でも――」
千尋が九鬼に視線を向ける。正確には、九鬼の腕辺りを。艶っぽい刺青だと感じるからこそ、千尋が何を気にしているのか、嫌というほど和彦には伝わってくる。
長嶺の男は、ぞっとするほど嫉妬深いのだ。
「――わたし、新幹線や電車が苦手なんですよ。あと飛行機も」
助手席で書類に目を通しながら、ふいに九鬼がそんなことを言う。車酔いしないのだろうかと気になりながらも、そうなんですかと和彦は応じる。
新幹線からの乗り換えの時間など心配する必要もなかった。九鬼は車で和泉家に向かうと言い、実際今、高速道路を走行している最中だ。
マンションのロビーで千尋と南郷と別れたあと、出発は慌ただしいものとなった。ひとまず準備はしておいたものの、何か忘れてはいないかと気が気でない。お金は下ろせたし、必要なものを買えはしたが、時間とともに今度は、大事な場で自分は粗相をしてしまわないかと、和彦の心配は尽きない。
和泉の名が重いのはもちろん、何より総子に迷惑をかけたくないのだ。
さきほど寄ったサービスエリアで買ってもらったペットボトルのお茶を一口飲む。
「大勢の他人が一緒に乗っていて逃げ場がない状況って、不安じゃありません?」
「考えたこと……、ないです」
「〈前職〉のとき、一緒に電車に乗っていた身内に大事がありまして、それ以来トラウマになりましてね。足を洗って関西から出てくるときも、新幹線や飛行機を使いたくなくて、ずっと車を運転してきたんです。追手がかかっているおそれもあったんで、ひたすら車をかっ飛ばしました」
どんな人生を歩んできたんだろうと疑問ではあるが、尋ねるのは怖い。そんな話を聞きながら、ハンドルを握る烏丸は黙ったままだ。相変わらず無口な男だ。さきほどからずっと、和彦と九鬼だけが話している。
「で、今回は、和彦さんをわたしのトラウマに単につき合わせているわけじゃないんですよね」
「ぼくは車移動でも不満はありませんよ?」
「それはよかった。――攪乱です。新幹線で移動するとギリギリまで思わせて、実は……と。和彦さんには心配症の保護者が何人かいて、どうしても護衛をつけたがりますからね。ぞろぞろ引き連れて、今の和泉のお屋敷には向かいたくなかったんです」
その気持ちは理解できると、和彦は頷く。ここでふっとため息をついた九鬼が、低く抑えた声で言った。
「……正時さん、ずっとあなたのことを気にかけてらっしゃいました。それもあって総子さんは、佐伯家のご主人に少しばかり圧をかけるような連絡をしたそうです。一秒でも早く正時さんに、あなたと会わせてあげたいという一念だったようで」
「本当に、顔を見られてよかったです。できることなら……、もっとたくさん話したかったですけど」
ふいにまた嗚咽が洩れそうになり、咄嗟にウィンドーの向こうに顔を向ける。車内が沈黙に包まれると、気をつかってくれたのか烏丸がラジオをつけた。
九鬼はまたため息をついたが、そこからしばらく話しかけてくることはなかった。九鬼なりに、悲しみを噛み締めているのだろうと和彦は推測した。
車で移動中も九鬼は忙しいようだった。書類に目を通し終えると、今度は誰かに電話をかけて小声で話し始める。あえて聞かないように努めはするが、耳を塞ぐわけにもいかない。どうやら、S&A合同会社絡みの用件のようで、相手は弁護士だということはわかった。
電話を切ると今度はメッセージを打ち込み始め、烏丸が呆れたように一瞥している。和彦は、そんな二人を後部座席から眺める。いい組み合わせだなと思ったとき、質問が口を突いて出た。
「九鬼さんと烏丸さんはつき合いは長いんですか?」
「んー、長いといえば長いですかね。関西にいた頃は顔見知り程度だったんですけど、こちらに来てから組むようになったんです。初めて和泉家に招かれたとき、彼がいて驚きましたよ。ちなみにうちの会社、他に社員がいるので、機会があればそのうち和彦さんに紹介しますよ。わたし以外、強面揃いなので、期待していてください」
「セキュリティ会社、ですよね?」
「……なんでもやりますよ。ドブさらいでもね」
高速道路を下りてからもう一度休憩を取ったあと、ひたすら車は走り続けた。そのうち見覚えのある景色が外を流れるようになる。
背もたれから体を起こした和彦はウィンドーに顔を寄せていた。すでに通り過ぎた小さな駅を振り返って眺める。寒い中、缶コーヒーで手を暖めながらバスを待っていた場所だ。
貯水湖にかかる橋に差し掛かったときには、夕日が水面に反射していた。ここまでくると、和泉家まではもう少しだ。
和彦の胸を重苦しい感覚が塞いでいく。正時の死を直視する瞬間がもうすぐ訪れるのだ。そして、総子になんと言葉をかけ、どう振る舞えばいいのかと思い悩む。
そんな和彦の苦悩を察したのか、九鬼が口を開いた。
「諸々の差配は、和泉家と馴染みの深い人たちがやってくれるでしょうし、事務的な手続きや処理も総子さんだけじゃなく、必要があればあなたのご両親がやるでしょう。あなたは孫として、静かに総子さんに寄り添えばいいと思いますよ。あなたが駆け付けてくれたことが、総子さんの支えになる。……正時さんも喜んでくれるでしょう」
和泉家の敷地を囲う土塀が見えてくる。九鬼と烏丸がぼそぼそと何かを相談したあと、車は立派な数寄屋門を通り過ぎてから、駐車場へと入った。かつて人の出入りが多かった頃の名残りなのか、駐車場は広く、数台の車や自転車などが停まっていてもまだ余裕がある。
今日は開け放たれている門から中を覗くと、駐車場の様子が見えていたのか、ちょうど玄関から、和泉家に住み込みで働いている君代が出てきたところだった。前回会ったときは明るく溌剌としていたが、今は目が真っ赤になって明らかに憔悴していた。和彦を見るなり、無理したような笑顔を浮かべる。
「遠いところを、お疲れになったでしょう。さあ、中に入ってください。奥様がお待ちになっています」
玄関に入ると、高齢の男性が丁寧に頭を下げたあと、荷物を部屋に運んでおくと手を出してきた。戸惑う和彦とは対照的に、九鬼は前に出て自分が持っているバッグだけでなく、和彦の手からも荷物一式を取り上げて男性に渡す。スリッパに履き替えながら小声で教えてくれた。
「古くから和泉家で働いていた人です。もう引退されていますが、手が必要なときにはこうして駆けつけてくれます」
九鬼たちとともに廊下を歩きながら、息を潜めたくなるような張り詰めた空気が満ちていると感じた。手伝いのため訪れているのか、数人の男女とすれ違ったが、皆沈痛な表情をしている。
ふと、さざなみのような密やかな話し声がどこからか聞こえてきた。どうやら食堂のほうにも人がいるようだ。
「隣組の人たちが、もう手伝いに入ってくれているようですね」
「隣組?」
「わたしも詳しくはないんですけど、近隣同士で葬儀とかを手伝い合う風習があるようです。特に和泉家の場合だと、力になりたいと思ってくれる人も多いでしょう」
君代の案内で向かったのは、畳敷きの広間だった。部屋に一歩足を踏み入れ、ひんやりとした室温にゾクッとする。次いで、鼻先を掠めた線香の匂いに胸が詰まった。
部屋には、顔に白い布をかけた正時の遺体が安置されていた。正時を見守るように、着物姿の総子と、白いワイシャツ姿の賀谷が並んで正座している。
二人は揃って和彦を見ると、総子は微笑を浮かべ、賀谷はただ悲しげに目を伏せる。九鬼にそっと背を押された和彦はおずおずと正時のもとに行く。総子と賀谷は静かに場所を空けてくれた。
「顔を見て、呼んであげて、昔みたいに」
そう言って総子が白い布を取る。正時は、ひどく痩せてしまってはいるものの眠っているかのような顔をしていた。
じいちゃま、と自然と和彦の口からこぼれ出ていた。不思議なほどその言葉が口に馴染むのは、遠い昔、こうやって何度も正時を呼んでいたためだろう。
「最期はどうしても家で迎えたいと言うから、賀谷先生にずっと付き添ってもらったんですよ。……本当に、この家が好きな人でした。わたしに代わって、ずっと家を守ってくれて……。でも、娘を守ってやれなかったことをずっと悔やんで――」
賀谷に促され、正時の唇を水を含ませた脱脂綿でそっと湿らせる。そうしているうちに和彦の目から涙が溢れ出ていた。
せっかく用意してもらった夕食はあまり喉を通らなかった。
和彦は前回と同じ客間に案内されてから、落ち着かない時間を過ごす。何か手伝えればいいのだが、この家や地域のやり方を一切知らない人間はかえって足手まといになるだろう。総子からも、休んでいてくれと言われてしまった。
一方の九鬼たちのほうは、総子と別室に移動するのを見かけた。広間に残ったのは賀谷だけだ。広間を出るとき、その光景を目にした和彦は、やはり賀谷は和泉家にとって特別な存在なのだと実感した。
賀谷とはもう一度会って、いろいろと話したいと考えてはいたが、こういう形での再会は望んでいなかった。
部屋でじっとしているのも落ち着かなくて、思いきって客間を出る。外はもう暗くなっているが、廊下には煌々と電気がついており、おかげでいくらか外の様子を見ることができる。年明けには鮮やかな赤い花をつけていた山茶花の木は、枝を刈り込まれてさっぱりとしていた。
ぼんやりと眺めていると、ふいに山茶花の木の根元近くで何かが蠢く。ぎょっとして目を凝らせば、全身灰色の猫だ。
「この猫……」
ついガラス戸を開けると、和彦を見上げた灰色猫はのんきな鳴き声を上げる。ここで和彦は、この家の異変にいまさらながら気がついた。年明けにはあれだけあちこちで見かけた猫たちの姿がないのだ。
ニャア、ともう一度鳴いた灰色猫が身軽に廊下へと乗り上がってくる。勝手に入れてしまっていいのだろうかとおろおろする和彦にかまわず、灰色猫は人懐こく足元にまとわりついてくる。この猫も正時に可愛がられていたのだろうなと思ったら、堪らない気持ちになった。廊下に膝をつき、ぎこちなく灰色猫を抱き上げる。
特に嫌がる素振りも見せない灰色猫をしっかり抱きながら、廊下に座り込む。琥珀色の瞳でじっと見上げてくるので、なんとなく和彦は語り掛けていた。
「お前、おじい様に可愛がられてたか? ふふ、少し肉付きがよすぎるみたいだ。美味しいものをいつも食べさせてもらってるんだろ」
言葉がわかるはずもないのだが、返事をするように灰色猫は小さく鳴く。腕の中の猫の温かな感触が愛しいと同時に切なくて、和彦はそれ以上何も言えなくなる。すると、誰かがこちらにやってくる足音がした。白いエプロンをつけた君代だ。
「あらあら、ここにいたんですね」
「あっ、すみません……。勝手に中に入れてしまって」
「大丈夫ですよ。この子、庭で遊ぶのが好きで、すぐに外に出ちゃうんです。今日は特に屋敷の空気が落ち着かなかったんでしょうね」
灰色猫はするりと和彦の腕から抜け出て、今度は君代の足元にじゃれつく。慣れた様子で君代は抱き上げた。
「みんなのところに行く前に、足をきれいにしようね」
今日は他の猫たちを見かけない理由を尋ねると、通夜はこの屋敷で行うため、大勢の人の出入りで猫たちがパニックを起こさないよう別棟の部屋に移動させたのだという。
「猫が苦手な人も中にはいらっしゃるでしょうしね」
灰色猫を抱いた君代が立ち去る姿を見送ってからも、和彦は客間に戻る気にはなれず、窓の外を所在なく眺めていた。屋敷内に漂う沈鬱な空気に溺れてしまいそうで、庭に出て少し外の風に当たりたかった。
「――和彦さん」
突然名を呼ばれてハッとする。いつからいたのか、少し離れた場所に九鬼が立っていた。
「ご両親が到着しましたよ。広間に行かれましたが、和彦さんはどうしますか?」
「……ぼくも、行きます」
九鬼とともに広間に向かう。一声かけて襖を開けると、すでに両親は、正時の遺体と対面していた。傍らでは気丈な様子で総子が見守っている。
賀谷は一旦自宅に戻ったと、背後から小声で九鬼が教えてくれた。あとはご家族だけでと言い置いて、静かに襖が閉まる。和彦は遠慮しつつ総子の側に腰を下ろした。
綾香は、苦しげな表情でボロボロと涙を流していた。滅多に感情を露わにせず、泣いたところなど子供の前で見せたことのない母親(ひと)が。
「優しいお父さんだった……。ずっとわたしの心配をしてくれて――。もっと会って、話せばよかった。優しくすればよかった。……お父さんにだけは」
恨み言とも取れる綾香の言葉を聞いても、総子は表情を変えなかった。母と娘の間にどんな葛藤や諍いがあったのか、和彦は何も知らない。それでも側で聞いていてヒヤリとしてしまう。
俊哉はじっと目を伏せていた。何か思索しているようにも見え、話しかけるのをためらわれる。しかしどうしても気になることがあった。
「……兄さんは、まだ?」
小声で尋ねると、ふっと視線を上げた俊哉が一瞬不快げに唇の端を動かした。
「仕事があって来られないそうだ」
「でも――」
「いいのよ。今生きている人間は、背負って果たす義務がある。忙しいのでしょう、英俊は」
こう応じたのは総子だった。何かが断ち切られたように沈黙が訪れ、誰も身じろぎしない中、線香の煙だけが緩やかに立ち昇っていく。
誰か、会話のきっかけを作ってくれないだろうかと願っていると、ふと思い出したように総子が和彦を見た。
「お風呂の準備ができているから、和彦さんが先に入ってきなさい。わたしはこれから、お寺や葬儀会社の方たちと相談することがありますから。それと、綾香と俊哉さんとも話したいことがあります」
あなたには聞かせたくないと、総子の眼差しが言っている。過去に重いものを背負い過ぎた三人でしか話せないこともあるだろう。和彦は、無力な子供に戻った気がしながらも、頷くしかなかった。
「今日はしっかり休みなさい。よければあなたには、明日の通夜のあとに、寝ずの番に加わってほしいから」
もちろんだと答えて和彦は広間を出たものの、中ではどんな会話が交わされているか気になって仕方ない。後ろ髪を引かれるように何度も振り返っていた。
廊下を曲がったところに、九鬼が立って窓の外を見ていた。和泉家の広い敷地のあちこちに屋外灯が点いている。年明けのときはそんなことはなかったため、正時が亡くなったことによる特別な配慮ということだろう。
「――この屋敷に出入りするようになってからすぐに、防犯のためにわたしが手配したんですよ」
「照明ですか?」
「正時さんが嬉しそうでした。明るくていいって。総子さんは、こんなに明るくする必要があるのかしらと首を傾げてましたけどね。監視カメラとかもつけましたけど、いつでも喜ぶのは正時さんなんですよ。新しいものが好きなんでしょうね。猫たちのオモチャも、どんどん買って送ってくれとおっしゃって……」
まだ信じられないと、ぽつりと九鬼が呟く。ウェーブがかった髪を一つにまとめている紐を解き、軽く頭を振った。和彦の位置からは髪に隠れて九鬼の表情が見えなくなる。
半日ほど九鬼と行動を共にしていたが、今ようやく確信が持てた。この男は、見た目以上に正時の死を惜しみ、悲しんでいるのだ。
「通夜のあとの寝ずの番は、九鬼さんも?」
「ありがたいことに、総子さんから声をかけてもらいました。……こんなオッサンを、けっこう正時さんは可愛がってくれましてね。せめてもの恩返しです」
風呂に入ってこいと言われているものの、和彦はしばらく九鬼の隣に立ち、ぽつぽつと語られる正時との思い出話に耳を傾けていた。
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