と束縛と


- 第48話(4) -


 テーブルに頬杖をついた和彦は、斜め向かいに座っている優也の様子をじっと見つめる。手土産の桜餅を食べながら。
 最近、人と会う機会の多さに伴い、手土産も頻繁に選んでおり、すっかり和彦も楽しんでいる。今日はあえて和菓子を選んでみたが、優也はひょいひょいと口に運んだあと、手ずから淹れた渋めのお茶をぐいっと飲み干してから、黙々と和彦の話を聞いて、ときおりコピー用紙に何かを書き込んでいる。その合間にさりげなく、残りの桜餅が入った箱をテーブルの下に隠していたが、和彦は気づかないふりをする。気に入ってくれたのなら何よりだ。
 ここは、優也の部屋だった。和彦が初めて足を踏み入れたときはひどい有り様だったが、今はすっかり片付いており、開け放たれた窓からは心地よい風が入ってくる。玄関に通されたときにさりげなく確認したが、城東会の組員によって切られたドアのチェーンは新しいものに取り換えられていた。
 引きこもりから脱したのを物語るように、ハンガーラックには春物の服がかかっており、白のスプリングコートが特に目を惹く。
 優也によく似合いそうだなと思ったときには、ふっと疑問が口をついて出ていた。
「あの白のコート、自分で選んだのか?」
「んあ? ああ、コート……。叔父さんが買ってきたんだ。出歩くようになったから必要だろうとか言って」
「趣味がいいな」
「あの人、結局のところシスコンなんだよ。僕の母さんが、似た色のコートを着てて似合ってたとか語り出してさ」
「おとなしく聞いてたんだ」
 和彦がニコニコしながら言うと、気恥ずかしそうに優也が視線を伏せる。
 ひどい風邪で痩せ細って荒んでいた優也の姿しか記憶になかったのだが、久々に顔を合わせてみると、実年齢よりずっと若く見える彼のことを、叔父の宮森が過保護にするのもわかる気がした。
 こけていた頬はいくらか肉がついており、血色のよさもあってずいぶん健康的に見える。それでいて華奢なあごのラインはそのままで、すっきりとした一重の目や、桜餅を二口で食べたとは思えない小さな口のおかげで、小動物のように愛らしい印象を受ける。人によっては加虐性が刺激されるのかもしれないと、引きこもっていた経緯を知っているとついそう考えてしまう。
 一昨日、九鬼たちに伴われて〈社会見学〉を行った和彦は、いよいよ相続というものが現実味を帯びてきて、なんとも落ち着かない。今すぐという話ではないうえに、和泉家やその関係者は何も心配はいらないと言い続けてはいるものの、悠然とはかまえていられない。何かしなければと気ばかりが急いてしまうのだ。
 そこで思い当たったのが、元税理士事務所勤務という経歴を持つ優也だ。数字に強い優也を使ってもらってかまわないと前に宮森に言われていたが、今まさにそのときではないかと、連絡を取った。ちょうど顔も見たかったということもある。とんとん拍子で話はまとまり、こうして優也の部屋を訪れたというわけだ。
「――なんとも言えない気持ちになるよな。親が遺してくれたものを相続するって。僕はまだ子供だったから、大学入るときまで叔父さんが管理してくれてたんだけど、それでも通帳見せられたときは、いろいろ込み上げてきた」
 優也が苦々しい口調で洩らす。簡単に説明した和彦の事情を踏まえての彼の言葉は、なんの抵抗もなく胸の奥に吸い込まれる。
「あんたの場合、事情が込み入ってそうだから、もっと複雑な気持ちだろうけど」
「だからずっと気を使われてる。祖母からは、面倒な手続きとか金銭的な負担とか、何も心配いらないと言われて……」
「それもう、法的にちょっと問題ありな手段使ってでも、あらゆることを進めて片付けるってことじゃん。あんたの周り、怖い人間多すぎ」
「……長嶺組の人間だけじゃなく、まさか母方の祖父母が、常在戦場みたいな覚悟を決めているとは思いもしなかった」
「大地主ともなると、潜ってきた修羅場がヤクザと大差ないのかもなー。僕、ヤクザにも大地主にも詳しくないけど」
 ヤクザには詳しいんじゃないかと心の中で指摘しておく。
 優也がシャーペンを置いたので、和彦がコピー用紙を覗き込もうとすると、素早く裏返しにされた。
「さっきから何を書いてたんだ」
「あんたが相続するというビルの家賃収入をざっと計算してみた」
「……数字に強いって、そういう……」
「冗談。話の要点を書いてただけだよ。相続税ぐらいなら計算してあげてもいいけど、周りから心配しなくていいと言われてるなら、あんたは知る必要はないだろ」
 それはわかっているんだがと和彦が口ごもると、優也がため息をつく。
「そもそも相続の話は年始にされて、しっかり弁護士先生からも説明受けたんだろ? いまさら何にうろたえてんだよ」
「なんだろう……。自分でもよくわからない。状況の理解はしているのに、本当にぼくに権利はあるのかって――」
「あんたが受け取らないなら、誰に権利がある。母親が遺して、息子が継ぐ。しかも祖父母は乗り気。どこもおかしいところはないけど」
「ぼくは、母親が二人いるんだ。生んでくれた人と、育ててくれた人と。そして、二人は姉妹なんだ。育ててくれた人は存命で、戸籍上の母親となってる」
 書かないと気が済まない性分なのか、優也はコピー用紙に簡単な家系図を書き、そこに和彦は修正を加えつつ、育ての母親との仲について説明する。円満な仲とは言いがたいということを。
 家系図を眺め、優也は一声唸った。
「なんかさー、あんたがウジウジするのもわかる気がするわ。込み入ってる度合いがこっちの想像を超えてる」
 そう言って優也が、コピー用紙に書いた綾香の名を指先で示す。
「あまりうまくいってないとか言ってたけどさ、この人の意見を聞くのはどうよ。相続について同意するにしても、嫌がるにしても、どう思ってるのか確認するのは大事だと思うぜ。法的なことは弁護士先生に丸投げできるけど、感情的なものは本人同士で話すしかない」
 ため息が出たのは、先日実家で綾香と顔を合わせたときのことを思い出したからだ。そのとき、相続についても話すつもりだったのだ。なのに和彦はその場から逃げてしまった。
「……気が重い。でも、筋は通すべきだとわかってはいる」
「話せるときに、話しておいたほうがいいって。いついなくなるかわからないんだしさ。僕のところみたいに」
 優也がふいに片手を突き出してくる。スマートフォンを出すよう言われ、勢いに圧されて和彦はなんとなく従ってしまう。一応組関係者の括りに入る優也に見られて困るような情報が入っていないからこそだが、さすがに何をしようとしているのか気になって手元を覗き込む。
「実家――でいいのかな。この時間、あんたの母親は家にいる?」
「たぶん。今は在宅で仕事をしているみたいだし……って、何してるんだっ」
 優也が実家に電話をかけているのを見て、慌てて止めようとするが、素早く躱される。
「思い立ったがなんとやらで、今日中に会ってきなよ」
 ぽいっと投げ返されたスマートフォンから、女性の声が聞こえてくる。いまさら電話を切るわけにもいかず、和彦は覚悟を決めざるをえなかった。


 別れ際にひらひらと手を振っていた優也の姿を思い返し、和彦は顔をしかめる。彼が高熱を出して寝込んでいたとき雑な扱いをしたことを、実は恨まれていたのかもしれないと、ふっと考えてしまう。
 そんな不穏な考えを、優雅なピアノの調べがかき消す。待ち合わせ場所であるホテルのカフェラウンジはピアノの生演奏が売りらしく、周囲のテーブルでは、聴き入っている客の姿は一組、二組ではない。それ以外の客たちは、見た目も華やかで美味しそうなデザートブッフェを堪能している。女性客が多いのは、そのせいかもしれない。
 頬杖をつき、美しい庭をぼんやりと眺める。今こうして、綾香の到着を待っている自分が信じられなかった。優也が強引な行動に出なければ、綾香と会うのはいつになっていたかと、複雑な心境ながら感謝はしておく。
「――そうしている姿、若い頃のお父さんそっくりね」
 ふいに傍らから声をかけられる。ビクリと体を震わせた和彦が視線を上げると、パンツスーツ姿の綾香が立っていた。
 正面のイスに腰掛けた綾香はメニューを開くことなくアイスティーを注文する。そして、和彦が飲んでいるものを見て、ふっと表情を和らげた。
「相変わらずオレンジジュースがお気に入りなのね」
 覚えていたのだと、素直に驚いた。
「ごめん。今から会いたいなんて、いきなり連絡して……」
「和泉の家のことでしょう。最近、うちにも連絡が来るの。話すのは、ほとんど俊哉さんとだけど」
 綾香の表情にわずかに苛立ちの色が浮かぶ。それを目にした和彦は、自分が和泉家の資産を継ぐことに、きっと綾香はいい感情は抱いていないだろうなと思った。
「確信はあったのよ。あなたはきっと、あの家に取り込まれると」
「取り込まれているわけじゃ――」
「あなたには、いいおばあ様でしょう。和泉総子という人は」
「……うん。優しかったよ」
「昔からよ。英俊にはそんなに関心を示さなかったのに、あなたに対しては甘いおばあ様だった。英俊は長男だから、何があっても手放すことはないとわかっていたんでしょう。だからわたしはずっと、あなたは実家に連れていけなかった。子供に何を吹き込んでも、不思議じゃない人だったから。わたしの母親は……」
 昔、家族揃って和泉家に出かけていた中、自分だけが置いていかれていた光景がふっと蘇った。
 ここでアイスティーが運ばれてきて、一旦会話が止まる。
「いろいろ聞いたよ。ぼくを産んだ女性(ひと)のこと……。写真も何枚かもらったんだ。母さんにそっくりだった」
「普通の女の子だったのよ。将来は何になりたいとか、そのためにどこの学校に行きたいとか。夢見がちで、自由だった。だけどわたしが、弁護士か官僚になるために進学したいと言い始めたことで、何もかも変わった。当然、両親とも反対したけど、わたしは家を出たの。紗香にすべて押し付けて」
 綾香は俊哉と知り合い結婚した。そこから何が起こったのか、今の和彦ならわかる。
「わたしのわがままが、結果として紗香を壊した。あの子が残したたった一つの宝物も奪ってしまった」
 綾香の唇が微かに震えているのを見て、胸が痛んだ。
 こうして相対して、母親という仮面の下から現れたのは、ずっと後悔を噛み締めて苦しみ続けた普通の女性の顔だ。それを気取らせないために、頑なに和彦の前では虚勢を張り続けていたのだろうかと思うと、ただ同情してしまう。子供の頃の自分をもっと気遣ってほしかったと、今になって訴えても、もうどうしようもないことだ。
 昔話をしたいわけではないと気を取り直す。総子からも佐伯家に連絡が入っているようだが、改めて自分の口から状況を説明しておきたかった。
「……わたしには、あなたの選択について口出しする権利はない。お母さんが直接、あなたに譲りたいと言って、もう手を回しているのなら、誰が何を言っても無駄でしょうしね」
「でもぼくは、母さんがどう感じているか、聞きたいんだ。和泉の家について、母さんも関係者なんだし」
「今言ったでしょう。権利はないと。わたしはもう、和泉の家の相続に関しては一切なんの権利もないの」
 綾香の言った言葉がすぐには理解できず、首を傾げる。綾香は自嘲気味に唇を歪めた。
「――……和泉の家を出てから、あの家からの援助は受け取らないつもりで生きてきた。だけど家同士の繋がりは、そんなに簡単にはいかない。姓は変わっても、結局わたしを守ってくれたのは和泉の家だった。だったら……、利用するしかないでしょう」
 息子のために、と綾香は呟いた。もちろん、英俊のことだ。
 詳しく話を聞くと、綾香は英俊の出馬に関して便宜を図ってもらうため、自分が将来相続するはずの和泉家の土地を利用したのだという。もちろん綾香の独断でどうにかなる話でもなく、当然総子と正時が承諾した結果だ。
「和泉と佐伯の家から、英俊が離れられるなら、悪くない取引でしょう」
「そのこと、兄さんは……?」
「そう、とだけ。あの子の優秀さは俊哉さんに似ているけど、神経が細やかすぎる。紗香のようで、ときどき不安になるの……。あの子には、二つの家の名は重すぎる」
 そんな人間に、政治家と、主張の強く奔放そうな女性の夫という役割は務まるのだろうかと、ふと和彦は思う。しかも背負うのは、大企業の創業者家の名だ。実家に里帰りをしたとき、初めて英俊と衝突したが、何かの拍子に簡単に折れてしまいそうな危うさを感じた。英俊は苦しんでいる。
 綾香がわが子にしていることは、かつて綾香たち姉妹が和泉家から受けた、息が詰まるような過保護さと何が違うのだろうか。
 そう指摘できなかったのは、和彦が、綾香の実子ではないからだ。
「和泉の家が贖罪として何かを譲ると言うなら、あなたの思うとおりにしなさい。どういう事態になろうが向こうは織り込み済みでしょう。いまさら、わたしが心配したところで――……」
 和彦はため息をつくと、すっかり氷が溶けたオレンジジュースを一口飲んだ。
「おばあ様が作ったという会社に行ったよ。資産の管理をしているという……。母さんも、社員なんだろ?」
「英俊が結婚したあとで、外してもらうつもりよ。……皮肉な社名。紗香はとっくにいなくなって、わたしも和泉の人間ではなくなって、それでもあの社名を変えないんだから。意地なのか、愛情なのか……」
「寂しいのかも。和泉の家に行ったけど、猫をたくさん飼ってた。あれは、昔から?」
「敷地内に居ついてはいたけど、家の中には入れなかったわ。手伝いの人たちが可愛がっていたけど、お母さんが撫でている姿なんて見たこともなかった。家の中のことが目に入らないぐらい、忙しくしてた人だから。お父さんは……こっそり餌をあげてたわね。懐かれすぎて、しまいには猫から逃げ回ってたけど」
 この日初めて、綾香が表情を和らげる。
「割れ鍋に綴じ蓋とは、あの夫婦のためにあるような言葉よ。お母さんに足りないものを、お父さんが補ってた。わたしは、お母さんのようにはなりたくなかったけど、ああいう夫婦にはなりたかった」
 綾香は、姉妹でまだ和泉家で暮らしていた頃のことを話してくれる。厳しく躾けられていたわけではなく、欲しいものはなんでも買い与えられ、どこにでも遊びに連れて行ってもらってはいたものの、総子が団欒の場にいたことはあまりなかったのだという。家を守っていたのは正時で、外に出て交渉事に臨むのは総子と、役割が完璧に決まっていたのだろう。
 正時はいつでも優しく穏やかだったと綾香は言った。日頃から、姉妹のどちらかが婿を取り、家を継ぐよう告げられてはいたものの、正時のような伴侶とならそれもいいかもしれないと、綾香は考えていたそうだ。
「――だけど、わたしにはできなかった。そういう性分ね。自分一人の力でどこまで行けるか知りたくなって、試したくなった。若い頃は順調だったからこそ調子に乗ってたのね。気がつけば、男社会の中で行き詰まって、立ち尽くしていた。そんなとき実家に顔を出してみれば、紗香は何も変わらず……、変わらないまま、幸せそうにしてた」
 紗香のために見合い相手を見繕っていると総子から聞かされたとき、綾香が感じたのは、実家から切り離されたという失望感だったという。その後、綾香は俊哉と出会い、互いに家格が理想的であると認識し合い、結婚した。そこから先の話は、和彦も知っている。
「英俊がいなくなった家で、あの人と二人きりの生活が送れるのか、ずっと考えているの」
「それって、父さんと……、別れたい、とか……?」
「そうなったら、あなた、俊哉さんと二人で暮らせる?」
 ぎょっとするような問いかけに和彦は返事に詰まる。いまさら自分が佐伯家に戻るなど、まったく考えていなかった。
「……あの人との関係に波はないの。知り合ったときも、紗香とのことがあっても、ずっと一定。あの人も同じように感じているのかもしれない。だから一緒にいられる」
 いつでも実家に戻ってきなさいと綾香は続けた。すべてを知った今の和彦となら、身構えることなく母親として接せられるとも。
 曖昧な返事で誤魔化した和彦の気持ちを、おそらく綾香はずっと理解できないだろう。


 頭の芯が疼くように痛み、低く唸った和彦はごそごそと寝返りをうつ。
 とにかく疲れた一日だったと、足を引きずるようにして自宅マンションに帰り着いたまではよかったのだ。その頃から、なんとなく頭痛の気配は感じており、母親と会って話したことを優也に報告したあとには何もする気力がなくなった。
 安定剤と鎮痛剤、どちらを服用すべきかと悩むのも面倒になって、まだ日も暮れていないうちからベッドに潜り込んだというわけだ。
 綾香との会話がずっと頭の中を駆け巡る。険のある対応を覚悟していただけに、あんなにいろんなことを話してくれるとは予想外だったが、素直には喜べないところもある。綾香は、自分たちと和彦は家族として新たに始められると考えている節があった。
 そのための障害となる、長嶺組――長嶺の男たちとの関係については、静かな口調でただ詰られた。同じぐらい、綾香は自分自身を責めていた。歪んだ環境に置いたせいで、和彦は今のような環境にいても平気になってしまったのだと。
 再び仰向けとなり、唸りながら前髪に指を差し込む。知らん顔をされるより、ああして触れてもらったほうが、まだ救われた気分だった。自分はもう、佐伯家に戻るつもりはないし、戻ってはいけないのだと確認できたからだ。
 いざというときがくれば、ためらうことなく自分は決断がてきる。
「――もうすぐ夕方だが、寝てるのか」
 前触れもなく、頭上から話しかけられる。和彦がハッと目を開くと、忌々しいほど魅力的なバリトンの主がじっと自分を見下ろしていた。
 なぜいるのかと問いたかったが、理由は一つしかない。
「心配して、来てくれたのか?」
「お前が予想外の行動を取ると、反動が怖い。……顔色が悪いぞ」
 和彦は自分の頬を撫でてから体を起こそうとしたが、賢吾に止められる。長居するつもりはないのか、賢吾はコートも脱がないまま床の上に座り込み、和彦と目線の高さを合わせてくる。
「宮森から、お前が甥っ子と会うのは聞かされてたんだが、まさかそのすぐあとに、自分の母親に会いに行くとはな。予想外もいいところだ」
「この間は、まともに話せなかったから……。会って話しておいたほうがいいと、優也くんが背中を押してくれた」
「今度、宮森の甥っ子に小遣いを渡しておくか」
 賢吾の冗談に小さく笑うと、頬を優しく撫でられる。
「話せてよかったと思う。何もかも思い出したあとだと、これまでの母さんの態度も納得……というか、理解できたし。すっきりというわけにはいかないけど、母さんも、苦しんだり悩んだりしてきた一人の人間なんだと感じられただけ、進歩だ」
「――お前はいままでは、自分をどこにも属さない枠の外に置いているようだった。高みから見下ろしているというわけじゃなく、そうだな……、仲間に入りたくても入れない子供みたいな」
「だから、悪辣な大蛇にあっさり捕まったんだな」
 賢吾が声を洩らして笑う。その低い笑い声が耳に心地いい。安定剤や鎮痛剤より、よほど頭痛に効く。
「ヤクザ一家の俺が言うなと思うかもしれねーが、お前の実家は歪だ。枠の外にいたから、こうして俺の目の前にいる。もし枠の内にいたとしたら――」
「……なあ、ぼくと母さんの会話を、どこかで聞いてたか?」
 さすがに組員たちにはホテルの外で待機してもらっていたのだが、この男ならどんな細工をしていても不思議ではない。
「聞いてなくても想像はできる。今のお前の様子を見たら、なおさらだ。――何か言われたか?」
「まあ……。母親なら、言って当然のこと、とか」
 言葉を濁したが、賢吾は深く追及してはこなかった。
「話せたこと自体はよかったんだ。母さんの考えがわかったし、和泉の家とのことではぼくの思うとおりにしていいと言ってもらえたし」
「実家に戻ってこいと言われなかったか?」
 反射的に起き上がった和彦は、賢吾に詰め寄っていた。
「やっぱり、なんか仕掛けてただろっ」
「親なら、そういうもんだ。うちの化け狐と張り合うお前の父親ならともかく、母親のほうはそうじゃないだろ」
 和彦は一気に脱力すると、もぞもぞとまたベッドに潜り込む。
「……戻るつもりはないから」
 わかっていると、大蛇の化身のような男はひっそりと笑む。
「ついでに、ぼくが今弱っているのは、落ち込んでるとかじゃないからな。単に人に会って話しすぎて、疲れただけだ」
「そりゃ大変だ。仕事に無事に復帰できるまで、本宅で寝起きしてリハビリするか? 嫌と言うほど人と会って話せるぞ。組事務所にも同行させてやる」
「――……遠慮しておきます」
 和彦が敬語で返事をすると、賢吾は声を上げて大笑いした。




 ここ数日の和彦は、真っ当な経営者らしい理由で多忙だった。
 新しく雇い入れたスタッフの研修をクリニックで行い、平行して、継続して勤務することになっているスタッフと、個別の面談も行った。長期となった休業の理由を改めて自分の口から説明して、不安を与えたことを詫びたのだ。このとき、体調不良による休業としていたため、スタッフたちから反対に気遣われて、非常に心苦しかった。
 五月の連休明けにクリニック再開となり、それを知らせる案内状はあらかじめ組が手配してくれていたため、和彦とスタッフたちで封筒に詰めて発送した。あとは、クリニック内の掲示物の準備に、受付カウンターや待合室にささやかな小物を置いたりと、レイアウトに時間を取る。
 作業を終えてから、せっかくスタッフ全員が集まったのだからと、クリニックを閉めてから近くのファミリーレストランに移動した。中途半端な時間のため、食事会というよりお茶会だ。
 新旧のスタッフがとりあえず馴染んでいる様子を眺め、そういえばと、和彦は思い出す。昨年の十二月には忘年会を兼ねた食事会を催したのだが、あのときは、まさか年明けからクリニックを数か月も閉めることになるとは想像もしなかった。
 本当にいろいろあったと、うっかり遠い目をしそうになったが、注文していたものが次々と運ばれてきて我に返る。小腹が空いていたため、和彦はアイスコーヒーの他にピザを頼んだ。
 和彦はピザを口に運びつつ、店の外の通りに目を向ける。陽気がいい――というよりよすぎることもあり、すでに半袖や、上着を脱いで歩く人がちらほらいる。
 結局今年はゆっくりと花見はできなかったが、惜しいとは感じなかった。散ってしまったものは仕方ない。また来年咲くものだ。
 そろそろお開きかという雰囲気が漂い始めた頃、ジャケットのポケットの中で短くスマートフォンが震えた。テーブルの下でチェックしてみると、外で待機してもらっている護衛の組員からだ。文面を読んで、軽く眉をひそめた。
 支払いがあるため、スタッフたちを先に送り出したあと、和彦は再びイスに腰掛ける。少しだけ早くなった鼓動を落ち着ける必要があった。数分ほど待って、スタッフたちが通りを歩いていくのを確認してから会計を終えると、和彦は来たときとは別の出入り口を使う。駐車場の隅を横切って、裏通りに出た。
 一体何事なのかと、とりあえず歩き出しながらスマートフォンを取り出す。組員から送られてきたメッセージは、表の通りで軽いトラブルがあって対処しているため、和彦だけ裏通りを移動してほしいというものだ。
 この場合、〈軽いトラブル〉とは、和彦を不安にさせないための方便だと考えたほうがいい。気にはなるが、引き返したところで足を引っ張るだけだ。よほど慌てていたのか、メッセージの指示は曖昧だ。どちらに向かって移動すればいいのかと戸惑いつつ、きょろきょろと辺りを見回してから、とりあえずファミリーレストランから離れることを優先する。
 タクシーが通りかかるのを待つより、駅まで行ってから帰宅方法を決めるほうがいい。そう考えながら速足で歩いていると、ふいに傍らで短くクラクションが鳴らされた。危うく飛び上がりそうになる。
 いつの間にか黒の軽ワゴン車に並走されていた。ハンドルを握っているのは加藤だ。ウインドーが下ろされ、短く告げられる。
「――先生、乗ってください」
 躊躇する間も惜しく、和彦は素早く後部座席に乗り込む。このとき、助手席の小野寺の存在に気づく。
 すぐに加藤は車を出したが、なかなか運転が荒い。車中に漂う緊張感に怯みそうになりながら、和彦は口を開く。
「何があったんだ?」
「ちょっと面倒な人物が、あのファミレスに近づこうとしていたそうです」
「面倒な人物って……」
「俺たちも詳しくは聞いてないんです。たぶん先生にとって、面倒な人物ということじゃないかと。それで、長嶺組の組員さんたちが引き止めている間に、先生を連れて行ってくれと頼まれました」
 誰のことだと、和彦は眉をひそめる。長嶺組の組員が、護衛任務をこの二人に引き継いでまで和彦との接触を避けた人物となると、すぐには思い当たらない。
「……じゃあ、マンションか、長嶺の本宅に戻らないといけないということか……」
 スタッフたちと別れたあとは買い物に行くつもりだったが、それどころではなくなった。落胆が声に出ていたのか、小野寺が振り返った。今日は耳朶でリングピアスが揺れている。
「先生、このあと何か予定が?」
「買い物に行く予定だった。だけど――」
「行きましょう。つき合いますよ」
 大丈夫なのかと怪訝な顔をする和彦に対して、小野寺が頷く。
「――……先生の自宅の周りに怪しい奴がいないか調べるらしいので、外で時間を潰してきてほしいそうです。俺たちで不安なら、ここから一番近い長嶺組の事務所に向かいますけど」
 クリニックの近辺に〈面倒な人物〉が現れたということは、当然自宅も警戒せざるをえない。一体どこの命知らずなのかと思いつつ、和彦は申し出に甘えることにした。


 勝手が違うなと、ジャケットを選びながら密かに和彦は苦笑を浮かべる。
 もういつ暑くなっても不思議ではないため、それに合わせて薄手のジャケットと、ワイシャツも何枚か買おうと、今朝のうちになんとなく予定に組み込んでいた。しかし、これは予定になかったと、傍らに立つ小野寺に視線を向ける。距離が近い、というのがまず頭に浮かんだ感想だ。
 長嶺組の護衛は慣れたもので、和彦が外を出歩くときは絶妙な距離を取り、窮屈な思いをしないよう配慮してくれる。だが、護衛任務はまだ試行錯誤中らしい加藤と小野寺は、なぜか和彦にぴったりと張り付いている。
「……こんなに側にいなくても大丈夫だぞ。もう少し離れていても……。ほら、あそこにイスがあるから、座って待ってたらどうだ」
 途端に小野寺から呆れたような眼差しを向けられる。一方の加藤は黙然としてただ周囲を見回している。
「不審者が出たというのに、呑気ですね……」
「騒ぎにはならなかったと組から連絡が来た。おかげで警察も来なかったとも。一体何者だったのかは書いてなかったが――あえて書かなかったのかな。まあ、なんにしても、すぐに戻らないといけない事態ではなかったみたいだ」
 小野寺と加藤の役目はとにかく騒動の場から和彦を離すことだったため、今からでも護衛を戻そうかと問われたが、断った。わざわざ買い物の付き添いのためだけに、組員を移動させるのも申し訳ない。
「そういえば、さっきの騒ぎ、もう南郷さんには報告したのか?」
 さりげなく尋ねると、加藤と小野寺はちらりと視線を交わし合う。
「もちろんです」
「……自分の隊の人間が役に立ったと、喜んでいるだろうな」
 そして、二人を護衛につけた自分の判断が間違っていなかったことも。
 加藤はともかく、小野寺がまったく興味なさそうな顔で立っているのが気になり、和彦は手早くジャケットとワイシャツを選んでいく。嫌がらせのつもりはないが、選んだものは小野寺に持たせていく。
「先生は、もっと気取った……お高い店で、服とか買っているのかと思っていました」
 和彦が選んだジャケットの値札をじっと見て、小野寺がぽつりと洩らす。
 三人がいるのは複合ビル内にあるセレクトショップだ。手に取りやすい価格帯のものが揃っているため、ときどき利用している。さすがに状況が状況なので、若者二人を引き連れて新規の店を開拓というわけにもいかない。
「そんなわけないだろ。そういうのが好きなのは、長嶺組長だ。ぼくは雇われ医師だから、そんなに贅沢はできない。この間は蚤の市で安い古着を買ったぐらいだし」
「でも、実家が太いんですよね?」
 小野寺の言いたいことはわかるが、なんとなく嫌な印象を受ける言葉だ。
「それを言うなら、君のほうがよっぽど高いものを身に着けている。君こそ実家が太いのか?」
「女衒なんてやってたクソは家族じゃないと、とっくに縁を切られてますよ」
 実家が太いことは否定しないのだ。和彦が微妙な顔をしていると、呆れたように加藤が言った。
「小野寺、佐伯先生に絡むな」
「絡んでないだろ。ただの世間話だ。それとも、お前が相手をするか?」
 せせら笑う小野寺に対して、加藤はむっつりと唇をへの字に曲げる。見るからに相性が悪いこの二人をよく組ませたなと、和彦は苦笑いをしつつ、Tシャツが置いてあるコーナーに移動する。
「――南郷さんは、どういう意図で君らをコンビにしたんだ」
「コンビ……」
 心底嫌そうな顔をしたのは小野寺だ。よほど不本意らしい。加藤もさすがに軽く眉をひそめている。
「あー……。相性が悪すぎるから、か。いざというときに殴り合いでも始められたら困るもんな」
「いえ、俺はそんなに粗暴じゃないので。こいつじゃあるまいし」
 小野寺に悪し様に言われても、加藤は言い返さない。
「まあ、粗暴でも性悪でも、ぼくの前で取っ組み合いをしないなら、別にいいんだ。今のところ君たちはきちんと仕事してくれているわけだし」
「性悪って、もしかしてそれ――」
 短く噴き出したのは加藤だった。小野寺がカッとしたように詰め寄ろうとしたが、寸前で和彦は腕を引っ張る。
「よし、欲しいものは選んだからレジに行くぞ」
 小野寺を引きずってレジカウンターに向かうと、むっつり顔で加藤もついてくる。
 欲しいものを買ったあとは帰るだけだが、それも味気ない。広い施設内を歩きながら辺りを見回した和彦の目に、ひときわにぎわっている店が飛び込んでくる。何かと思えばアイスクリーム店だ。
「今日は特に天気がいいからなー」
 ぽつりと洩らすと、怪訝そうに小野寺が振り返る。加藤は、和彦の斜め後ろをついて歩いている。
「何か?」
「ちょっと休憩をしよう」
 二人の返事も聞かず、和彦はアイスクリーム店に突入する。
 気温も高めということもあって、客が多いのもう頷ける。少し列に並ぶことになったが、無事にアイスクリームを買うと、休憩スペースに移動して腰を落ち着ける。基本的に無表情の加藤はともかく、小野寺はなんとも不本意そうな顔をしている。
「――佐伯先生、俺たちをからかって楽しんでます?」
 チョコレートミント味のアイスクリームを一口食べた小野寺が問いかけてくる。ちなみに加藤はコーヒー味だ。
「ぼくはそんなに性悪じゃない。つき合ってもらったささやかなお礼のつもりだ。ぼくも食べたかったし」
「俺も性悪じゃないです。……男三人並んでアイスを食うって……」
「ぼくが一人で食べて、君らが側でじっと眺めているほうが、周りから注目を浴びると思うぞ」
 不承不承といった様子で小野寺はもう一口食べる。和彦は抹茶味のアイスクリームをスプーンで掬いながら、そんな小野寺を観察する。自分のペースを乱されるのが嫌なタイプなのだろうと察していた。誰からも庇護される立場にある和彦に振り回されるのは、気に食わないといったところか。
 それでも敬語は使ってくれるし、護衛の任務は果たしているので、不満はない。アイスクリームぐらいいくらでも奢ってやれる。
 和彦は顔を背けて、ふふっ、と笑い声を洩らす。自分はずいぶん性悪だと思ったのだ。目が合った加藤が物言いたげな素振りを見せたところで、和彦のスマートフォンが鳴った。
「どうかしたのか、君からかけてくるなんて」
『先生、大丈夫ですか?』
 電話の相手は中嶋だった。いきなりそう問われて面食らっていると、また加藤と目が合う。
 小野寺は南郷に、加藤は中嶋に。しっかり報告をしていたのだ。
「ぼく自身は危ない目に遭ったわけじゃないし、正直、何が起こったのかもまだわかってない」
『そんな感じの声ですね。まあ、先生らしいというか……。――今どこにいるんですか? うちの若い番犬二人を引き連れて移動してるらしいですけど』
 隠すことでもないため、三人でアイスクリームを食べていると正直に告げると、電話の向こうで中嶋が声を上げて笑う。
『知ってましたけど、先生、猛獣使いの才能ありすぎですよ』
 ひとしきり笑ったあと中嶋は本題に入った。
『――先生、これから会えませんか』
「急用か?」
『まあ、そう言えなくもないです。タイミングとしては今が最適だと思うので』
 加藤と小野寺がじっとこちらを見ていた。危機感というほどではないが、背に落ち着かないものを感じる。彼らは何かを知っているのだと直感した。そして和彦は、その直感を無視できない。
「わかった。会おう」


 小野寺の丁寧な運転で、車が街中を走る。和彦は瞬きも忘れ、外の景色を凝視していた。つい最近見た光景だと既視感に襲われたのは一瞬で、なんのことはない。ほんの一週間ほど前に同じ道路を通ったのだ。九鬼が運転する車で。
 駅前を走り抜けるとき、ちょうどキリエ和泉ビルも目に入る。今日はこのビルに用はないが、なんの目的もなくこの場所に来るはずもなく、和彦は用心深く周囲に視線を向け続ける。
 前回は離れた距離から見かけたショッピングモールの側を通り抜けて少し行くと、マンションが建ち並ぶ景色が広がる。ベランダでは洗濯物が風で揺れ、遊具の揃った公園では、遊んでいる母子の姿が何組か。のんびりとして平和な午後の光景だ。
 車は、数あるマンションの一棟の前に停まった。規模からしていわゆるファミリー層向けのマンションのようだ。
 小野寺が軽くあごをしゃくると、加藤が黙って車を降りる。和彦も、買ったばかりの服が入った袋を抱えて車を降りた。小野寺にそうするよう言われたのだ。
 加藤にとっては初めて訪れた場所ではないらしく、迷いのない足取りでエントランスに向かい、和彦も小走りであとをついていく。無防備についていっていいものかと考えなくもないが、一応組のほうには、中嶋と合流することは伝えてある。万が一にも和彦を拉致する目的だとしても、この場所ではないだろうと妙な確信があった。
 ちょうどエレベーターの扉が開き、ベビーカーを引いた女性が降りてくる。強面の加藤に一瞬ぎょっとしていたが、和彦には笑顔で会釈してくれたので、ソツなく挨拶を返しておいた。
 六階でエレベーターを降りると、誰もいない共用通路を黙々と歩く。この高さだと、来るときに見た公園がよく見下ろせる。公園の隣には小さいながらグラウンドもあり、危なっかしい足取りでサッカーボールを追いかける小さな子供たちがいる。可愛らしい姿に目を細めていると、いつの間にか立ち止まっていたらしい加藤とぶつかった。
「――南郷さんが言ってました」
 謝ると、そう加藤が切り出す。
「へっ?」
「佐伯先生の前を歩くときは気をつけろと。よそ見してぶつかってくることがあるから」
「……そんなことを……」
「守られる立場にいる人は、それぐらいでいいと思います」
 フォローらしいことを言ってから、加藤がインターホンを押す。すぐにドアが開き、中嶋が姿を見せた。
「ご苦労だったな。今日はもういいぞ。俺が先生を連れて帰ると、長嶺組に連絡を入れておいた」
「わかりました」
 それだけのやり取りのあと、一礼して加藤は足早に立ち去る。その後ろ姿を見送ってから、和彦は中嶋に向き直る。同じタイミングで口を開いていた。
「久しぶり」
「久しぶりですね」
 苦笑を交わし合ってから中嶋に部屋の中に招き入れられた。
 4LDKの空間は、どの部屋も見事に生活感がない。まるで引っ越してきたばかりのように、数個の段ボールがリビングダイニングの隅に置かれ、あとは適当に買い揃えたような家具が一通り。ここはまだマシなほうで、ドアが開いたままの部屋を覗くと、空っぽだった。
 ベランダに面した部屋に通されたが、本来は二部屋なのを、仕切りドアを外して一部屋として使っているようだ。片隅にベッドが置いてあり、大きなテーブルとイスが何脚か。テーブルの上にはノートパソコンなどの機材一式が接続された状態で並んでいる。壁際には無造作にホワイトボードが立てかけられており、そこには地図の他に、細かい字が印刷された書類や、建物などの写真が貼り付けられていた。
「なんなんだ、この部屋……」
 さきほど外で見かけた微笑ましい光景とは一変して、何かうすら寒いものを感じて和彦は眉をひそめる。
「――前線基地っぽくないですか?」
 物騒な単語に息を詰める。和彦はじわじわと警戒を強め、改めて中嶋を見つめる。ハンサムなのは相変わらずだが、しばらく会わない間に少しだけ近寄りがたさを増した気がする。今はもう、中嶋が元ホストだと言ってもほとんどの人間は信じないだろう。
「前線基地って、どういうことだ?」
「この街がどういうところなのか、先生は知ってますよね。なんといっても、でかいビルを所有することになるんですから」
 千尋から聞かされたとおりに話すと、中嶋はニヤリとして口元に指を当てた。
「もしかすると千尋さんは、あえて情報のアップデートをさせてもらってないのかもしれませんね。先生の側にいる方ですから」
「……大きい組同士が話し合って、荒れてた状況が収まったというのは、うそなのか?」
「うそじゃないです。もっとも俺は、南郷さんたちに教えてもらうまで、この街がかつてどういう状況だったかすら知らなかったので、偉そうに語れる立場でもないんですけど」
 中嶋に誘われて、二人でベランダに出る。穏やかな風に髪を撫でられながら地上に視線を向けると、行き交う人たちの姿が見える。
「この街――桐栄(きりえ)区について、俺たちの業界では不文律があるらしいです。昔の、人死にが出るほどのゴタゴタで得た教訓らしいですけど、組事務所は置かない、というものです。それに組を後ろ盾にした商行為も厳しい目を向けられると。せいぜいが、自分の愛人に店を持たせる形にするとか、そういう抜け道を使ってなんとか。総和会といえど、この不文律は守っています。数代前の会長が手ひどい目に遭ったから、とは言われています」
「それで上手くやっていけるものなんだな……」
「同じ業界の人間がルール破りで得をするとなったら、おもしろくないですからね。その意識が、監視として働いていたようです」
「……働いていた?」
「現状、雲行きが怪しくなっているんじゃないかと、鼻の利く人が言っていまして」
 和彦は振り返り、部屋のホワイトボードを見遣る。
「もしかして、あれ――」
「地元の不動産屋にちょっと手を借りて、調べているところです。昔からある不動産屋だと、当時のひどい光景を覚えているらしくて、意外に情報提供に関しては協力的ですよ。こういうとき、ホスト経験って役に立ちますね。愛想だけは売るほどあるので」
 中嶋が、秦の部屋を出た理由はこれかと納得する。
「雲行きが怪しいというのは、不文律というものを解しないしない人間……組織もですね。そういう連中の気配をちらほら感じるようになったということです」
 少々回りくどい言い方だなと和彦が眉をひそめると、中嶋はくすりと笑った。ここでまた、背に落ち着かないものを感じる。
「ある田舎者が、意気揚々と乗り込んでこようとしているみたいです。いくつかの物件を名義を変えて押さえてから、名のある組同士が牽制し合って空白地帯となっているところを一気に押さえて、一旗揚げようとか、のぼせたことを考えているんじゃないか――、あっ、これ、南郷さんの言葉です。実現できなくても、存在感を示すことはできる。悪名だとしても」
 ふいにベランダの隔て板の向こうから、子供二人の甲高い声が上がる。それを窘める柔らかな女性の声も加わったところで、中嶋がぽつりと呟いた。
「おや、幼稚園から戻ってきたのかな」
 聞くつもりはないのだが、拙い口調で今日は何をして遊んだか懸命に話すため、どうしても耳を傾けてしまう。千尋の子である稜人も、あんなふうに話すのだろうかとつい考える。同時に、隣人がごく普通の家族ということで、中嶋はどんな顔をしてこの部屋に滞在しているのかと急に心配になる。
「……君の素性、怪しまれたりしてないか?」
「婚約者とそのうち一緒に住む予定だと言ってます。隊の人間も出入りしますが、それについては、仕事を独立する準備のためだとか、もっともらしいことを言ってます」
 面倒なことになったら別の部屋に引っ越すだけだと、軽い調子で中嶋が言う。
 和彦は、じっと地上を見下ろしながら問うた。
「で、乗り込んでこようとしている田舎者というのは誰なんだ」
「――伊勢崎組です」
 さほど驚きはなかった。伊勢崎組がこちらで新しい商売を始めたがっていることは聞いており、中嶋の話を聞きながら察してはいた。ただ、だからこそ気になることがある。
「この街で動いていることと、そこにキリエ和泉ビルがあることは、偶然なのか?」
「んなわけないですよね」
 カラカラと笑う中嶋をじろりと睨んでから、和彦はため息をつく。
「賃貸物件に入るだけなら、そう難しいことじゃないんですよ。しかしそれでは、望む活動はしにくい。そこに、長嶺組とも総和会とも深くつき合いがあるどころか、双方から大事に庇護されている先生が、何やらビル持ちになるらしいという話が耳に入ったら。そこを拠点にしての関東圏進出というのは、悪くないんじゃないかと……」
「いや、そもそもどうして、ぼくがビルを譲り受けるかもしれないと知ってるんだ。そりゃ、関係者には報告したけど、つい最近のことだ。動きが早すぎるだろ」
「――……御堂さんは早くから、可能性があると見ていたようですよ。先生がいつかは、かなりの財産を受け継ぐことになると」
 和彦は目を見開き、中嶋を見つめる。肩先が触れるほど身を寄せてきた中嶋は、囁くような声で言った。
「先生、ヤクザの意地汚さと情報を嗅ぎつける能力を舐めちゃいけません。見た目はどれだけきれいでも、御堂さんもヤクザですよ」
「でも、そんな……」
「あの人は目的があったから、先生と伊勢崎組を結び付けようと考えていた。――面識がありますよね? 伊勢崎組の組長と」
 自分はどうやって、伊勢崎龍造と顔を合わせる流れとなったのかと、必死に思い返す。昨年の秋に、賢吾の名代として清道会の祝い事の場に出席したときのことだ。経緯としては不自然なものではなかったが、裏で誰がどう動いたかは、今となっては不明だ。賢吾が名代を立てなければ、また別の機会が設けられ、和彦は龍造と出会うことになったかもしれない。
 もしかすると自分と御堂が知り合い、親しくなったのも、計算ずくだったのだろうかとまで考えたところで、和彦はぞっとして身を震わせる。
「先生、中に戻りましょうか」
 促されて部屋に入った瞬間、和彦は中嶋に詰め寄る。
「君は誰の命令で動いているんだ?」
「ここでの仕事は当然、南郷さんからの指示を受けてのものです。伊勢崎組の組長と御堂さんの関係についても聞いています。そのうえで、御堂さんからも少しばかり情報をもらいました」
「……どうしてぼくに、教えてくれるんだ?」
「俺は先生の味方です」
「ぼくを利用したいと言われたほうが、まだ素直に信じられるんだが……」
「素直なのが先生の美徳ですよ」
 人を食ったような答えに、睨む気力も湧かない。
「前に御堂さんと二人で食事をしたときに、俺、言われたんです。自分と南郷、どちらかにつこうかなんて考えなくていい。つくなら、先生にしておけと」
「ぼく?」
「何か楽しいことがあるのかもしれませんね。先生の側にいると」
 どこまで本気かわからないことを言う中嶋を眺め、この世界の男たちは頭のネジがどうかしていると、いまさらなことを実感する。和彦は疲労感を覚えて、イスを引き寄せ腰掛けた。
 髪をぐしゃぐしゃと掻き乱してしまうのは、感情が波立っているからだ。自分の知らないところで、まだ相続したわけでもない財産を巡って謀略を巡らせている人間がいるかもしれないのだ。非常に不愉快ではあるのだが、伊勢崎組と聞いてどうしてもちらつく顔がある。
〈彼〉が関わっていなければいいのにと願ったところで、腰を屈めた中嶋に顔を覗き込まれた。
「先生、今日、クリニック近くのファミレスにいたときに、トラブルがあったんですよね」
「……よく、わからない。誰も、何があったのか教えてくれないんだ。なんなら君が教えてくれてもいいんだが」
「知りたいですか?」
「したり顔の君がちょっとムカつくけど、言いたいなら、聞いてやってもいい」
 何を言われるかと身構えながらの虚勢だが、中嶋はくすりと笑ってから、床に片膝をついてさらに目線を下げてきた。
 見上げてくる中嶋の両目が、愉悦を覚えているように爛々としている。和彦は咄嗟に立ち上がろうとして、しっかりと両手首を掴まれ阻まれた。
「――伊勢崎組長の息子が、先生のいたファミレスに向かおうとしていたようです」
 短く声を洩らしはしたものの、言葉が出てこなかった。
「地元を出て、こちらの大学に入学したんだそうですね。まじめに大学生生活を送っているということでしたが、その一方で、父親の部下たちを使って、先生の動向を探らせていた。クリニックに再開の動きがあり、先生に接触できると踏んで自ら乗り込んできた、というところでしょうかね」
「どうして、そんなに詳しいんだ……? 加藤くんと小野寺くんも、事情がわからないまま、指示されて動いたと言ってたのに」
 問いかけながら、薄々答えはわかっていた。ついさっき、中嶋自身が言ったのだ。
「御堂さんか……」
「伊勢崎組長の息子の動きは予測がつかないと、苦笑してましたよ。突飛もない行動に出る可能性があるからと、第一遊撃隊が尾行をつけていたそうです。そして、今日の騒動です。長嶺組の先生の護衛が止めていなかったら、どうなっていたか」
 大きく息を吐き出した和彦は、まずは中嶋に対してこう訂正した。
「『伊勢崎組長の息子』は彼の名前じゃない。――伊勢崎玲だ」


 宅配してもらったオードブルを肴に、和彦はワインを飲みながら、中嶋相手にくだを巻いていた。
「君、性格悪くなったんじゃないか。ぼくの反応を見て楽しんでたよな。……はー、初めて会ったときは、何かと気遣ってくれてたのに。あのとき君は、運転手だったんだ。それがあっという間に隊で出世して……」
「先生、俺はもともと性格はよくないですよ」
「……悲しいことを言うなよ。君は皮肉屋だとは思うが、性格が悪いと謗るほどでもないだろう」
「いや、たった今先生が――」
 調子に乗ってワインだけでなく、まるでジュースのような酎ハイも飲んだせいか、いつになく高揚感があって気持ちいい。
 和彦は、中嶋がいうところの〈前線基地〉にまだ滞在していた。聞くことを聞いてしまえば帰ってもよかったのだが、玲の接近を知った賢吾の反応が怖い。あからさまに機嫌が悪くなることはないだろうが、言葉でじわじわと締め上げてくる恐れはある。大蛇の化身のような男は、和彦の人間関係に寛容な一方で、嫉妬深くもある。
 どこかでさらに時間を潰して帰ろうかと悩んでいると、久しぶりに飲みますかと中嶋から提案され、まんまとそれに乗った。
 隊員たちの雑魚寝用に準備してあるというラグマットの上に座り込み、すっかり和彦は寛いでいる。中嶋も、和彦を送っていくという話を忘れてしまったのか、ビールを呷っている。普段のこの部屋での過ごし方が推測できるが、冷蔵庫には見事にアルコール類と水しか入っていなかった。
「なあ、わざわざここに部屋まで借りる必要があったのか? 具体的に何を調べてるのかわからないが、拠点は他の地域でもいいだろ」
「――キリエ和泉ビルで、大立ち回りがあったそうですね。派手な柄シャツを着た男がビルの一室で大暴れして、マッサージ店をめちゃくちゃにしたと」
 チーズがたっぷり絡んだペンネにフォークを刺していた和彦は動きをとめる。この出来事があった日は、総和会には予定を知らせていなかったはずだ。
「それは、健全なマッサージ店だったはずが、いつの間にか大人のマッサージ店になってたからで……。おっそろしいな。そんなことまで把握してるのか」
「これが仕事です。うちの隊……というより、おそらく長嶺会長の意向でしょうけど、しっかりとした情報網を構築しようとしているんです。どうやって、とは聞かないでくださいね。企業秘密です」
「怖いから聞かないけど。そこまで警戒するには理由があるということか」
「第一が動いているから、第二も動かざるをえないというところです。南郷さんと御堂さんは、互いの腹の内を読み合っているんですよ。隊の動きを監視し合って。先生がいない間に、第一は急速に隊としての勢力を取り戻しつつあるのも、警戒する理由ですかね」
 酒の肴にするには、いささか物騒な話題ではないかと思っていると、側に置いてあるスマートフォンがメッセージの受信を知らせる。またですか、と中嶋が軽く笑う。さきほどから気になって仕方ないのだ。
「……これがあるから、自発的にスマホを持つ気にならなかったんだ。しゃべる感覚でメッセージを送られてくるのが目に見えていた」
「音消したらどうです。いっそのこと、スマホの電源を切るとか」
「電源を切るのはマズイ。問答無用でここに踏み込まれそうな予感がする」
 中嶋がラグの上にひっくり返って爆笑している。アプリの設定を変更するのも面倒で、和彦はのそのそと立ち上がり、リビングダイニングのテーブルの上に置いておく。部屋に戻ると、中嶋はまだ笑っていた。
「大事にされていますね」
「ぼくは信用されてないからな……」
 自然と苦い口調になる。ようやく笑い収めた中嶋が、体を起こしながらさらりと言った。
「そういえば先生、派手な柄シャツの男の大立ち回りのときに、クセと色気のある男と一緒にいたそうですね。誰ですか? 長嶺組の人間でないのはわかっているんですけど」
 これは誰から探りを入れろと頼まれたのだろうかと、ちょっと意地の悪いことを考える。少なくとも長嶺組は情報を流してはいないようだ。
「ふふ。さすがに正体まではたどり着けなかったか」
「和泉家が先生につけた後見人的なものかなというのはわかります。一緒に和泉家所有のビルの中を見て回ってたんですから」
「……可愛くない」
「堅気ではない雰囲気だったというので、気になっているんです。個人的に」
 九鬼の肌に艶やかに息づいていた牡丹の刺青を思い出す。次の瞬間、和彦は唐突に、『餌を撒きに』という九鬼の言葉の意味を理解していた。
 和泉家が所有する不動産に出入りする和彦の存在によって、組織なのか、個人なのか、とにかく何かを釣り上げたかったのだ。現に、こうして中嶋が釣れた。つまり、第二遊撃隊および総和会が釣れたといえる。九鬼が本当に釣り上げたいのは何者なのか――。
「本当に怖いなー、君たちは。迂闊に出歩けない」
「誤解しないでもらいたいんですが、俺たちが網を張っていたところに、先生が引っかかったんです。決して、先生の動向を探っていたわけでは」
 サラミを摘まみ上げて中嶋が口に放り込む。塩気が強かったのか、顔をしかめてビールを飲んだ。和彦はフランスパンに小さく切ったテリーヌをのせて齧っていると、開けた窓から風が吹き込んでくる。日が傾いてくるにつれ、風は少しずつひんやりとしてきたようだ。酔いで火照った頬には心地いい。
「――先生、さっき言ったクセと色気のある男と、寝たんですか?」
 唐突に投げかけられた質問に、危うくパンを落としそうになる。反論する前にぐいっとワインを飲み干した。
「そういう相手じゃないからな。……さすがにぼくも、そこまで無節操じゃな、い……と思う」
「断言しないんですか」
「……君、やっぱり性格が悪いじゃないか」
「だからそう言ってるでしょう」
 意味ありげに中嶋が含み笑いを洩らし、つられて和彦もふふっと笑い声を洩らしていた。
「こういう話は君としかできない。しばらく会えなかったから、そのことをすっかり忘れてたよ」
「いいんですか、そんなこと言って。南郷さんか御堂さんに報告するかもしれませんよ」
「君がそんなに忠義心に溢れてるとは思わなかった。――ぼくについてくれるんだろ?」
 敵わないなー、と洩らしてから、中嶋は紙ナプキンで丁寧に指先を拭う。そして、すぐ側まで這い寄ってきた。
「会えなくて寂しかったですよ、先生。もしかすると二度と会えないかもと、覚悟してました」
「意外だな。そこまで君に想われていたなんて……」
 冗談めかして応じた和彦だが、じわりと体温が上昇して、鼓動が跳ねた。この感覚は久しぶりだった。淫奔で快楽に弱い自分の本質を思い出す。
 ゆっくりと中嶋の顔が近づいてくる。互いの意思を探り合うように見つめ合ったまま、唇が重なった。抵抗も違和感もなく、自分の中で中嶋という男の存在が変わっていないことに、奇妙な感動があった。
 和彦が窓をちらりと見遣ると、察した中嶋が一旦体を離してすぐに窓を閉めてくれる。
「先生、〈どっち〉の気分ですか?」
 Tシャツを脱ぎ捨てながら中嶋に問われる。和彦もワイシャツのボタンを外しながら答えた。
「……どちらも味わってみたいな」
「奇遇ですね。俺もです」
 笑い合いながら和彦も上半身裸となると、次の瞬間には中嶋にのしかかられ、二人一緒にラグの上に倒れ込む。お互い酔っているのは、勢い任せの口づけから伝わってくる。ふざけ半分、本気半分で絡み合いながら転がっているうちに、クスクスと笑い声を洩らしていた。
 なんとなく、このまま興ざめとなって終わりになるかと思ったが、中嶋の手が下肢に這わされてうろたえる。するするとスラックスを下ろされたところで、中嶋の本気を察した。遠慮はいらないなと、和彦も中嶋の穿いているジーンズの前を寛げる。
「んっ……ふ」
 両足の間に腰を割り込ませてのしかかってきた中嶋と、互いのものを擦り合わせる。ふとあることが気になった。
「ここ……、勝手に人が入ってくるなんてことは――」
「緊急でもない限り夜は誰も来ませんよ。……朝は、加藤が朝メシを持ってきますけど」
 このとき物言いたげな顔をしたらしく、中嶋が薄い笑みを浮かべる。
「加藤が気になりますか?」
「別に……」
「先生は、秦さんと仲良しですもんね」
 そんなことはないと言いたかったが、中嶋に唇を塞がれていた。
 中嶋の体に両てのひらを這わせながら、首筋に顔を寄せる。〈前線基地〉でよくわからない情報収集に励んでいるという話だが、そんな環境下でもコロンの甘い香りがする。ふっと魔が差したように加虐的なものを刺激された和彦は、首筋にゆっくりと歯を立てた。ビクリと体を震わせた中嶋が、小さく喉を鳴らす。
 触れ合っている中嶋の欲望が瞬く間に形を変え、熱くなっていく。中嶋のその反応に、和彦は煽られる。
「へえ、こういうのが好きなんだ、君は」
 首筋の次は耳朶に歯を立てる。今度はやや強く。呼吸を弾ませた中嶋が、刺激を欲しがるように腰を揺らす。意図を察して互いの下肢に手を伸ばし、身を起こしかけたものを握り込む。
「んっ……」
 どちらともなく吐息をこぼし、ちらりと視線を交わした次の瞬間には舌を絡め合う。そこから先はじゃれ合うように体に触れ、唇を這わせ、飽きたらいつでも終えられる際どい行為を繰り返す。大人の男同士がやることかと、賢吾が見ていたら苦笑いしたかもしれない。
 突然、中嶋が手を伸ばし、スマートフォンを取り上げた。何かを確認したあと、微妙な表情を浮かべた。
「……長嶺組からで、一時間ほどで先生を迎えに来るそうです」
「ぼく宛てだと読まないと判断したんだな。――ここの場所、把握されていいのか?」
「先生を連れ込んだぐらいですから、秘匿情報というわけではないですよ。何かあれば身軽に移動できますし」
 ならいいんだと呟いて、和彦は仰向けでひっくり返ったまま両手を投げ出す。中嶋との遊びの時間は呆気なく終わりを迎えたのだと思ったら、少しだけ残念だった。
 中嶋はスマートフォンを放り出し、裸のまま一旦ラグから離れたが、すぐに戻ってくる。手には小さなボトルを持っていた。
「一時間あれば、十分ですね」
「……何がだ?」
「やだなー。どちらも味わってみたいんでしょう」
 婀娜っぽく笑みを浮かべた中嶋が、小さなボトルを開けてとろみのあるローションをてのひらに取る。中嶋は慣れた手つきで己のものに塗りつけると、和彦にのしかかってきた。制止するどころか、期待を込めた眼差しで中嶋を見上げる。
 絡みついてくるような甘く重い情欲ではなく、手軽な享楽を求めるだけの体の繋がりが、中嶋との関係の利点であり、魅力だ。昼間、自分に接近していたという青年の存在を、頭の中から追い払うには何よりの手段だ。
 和彦のものにもローションが塗り込められ、さらには内奥にも施される。愛撫らしい愛撫もないまま、中嶋のものが内奥に挿入されてきた。
 圧迫感と、下腹部に広がる重苦しさに呻き声を上げたものの、引き裂かれるような痛みはなかった。和彦は深く息を吐き出して、内奥で蠢く中嶋のものを締め付ける。受け入れたばかりの熱にすでに体が馴染み始めていた。
 肉が擦れ合う淫靡な音が二人の間で生まれる。息を弾ませながら唇を啄み合い、舌を絡ませ唾液を交わす。中嶋のものが一層深くに押し入り、ひくつく襞と粘膜を強く擦り上げてくる。
「ああ、すごいな、先生の中……」
 掠れた声で中嶋が洩らす。和彦は律動に合わせて自らのものを擦り上げていると、中嶋がじっと見下ろしてくる。
「……なんだ?」
「先生のような存在は、高校生には強烈だっただろうなと思って。さんざん世間に揉まれてきた俺ですら、先生と初めて会ったときは、見た目はまともになのにとんでもない人だと感じたぐらいですから」
「それにしては、初対面でもぼくに対してけっこうふてぶてしかったぞ」
 そうでしたかねー、と呟きながら中嶋が、乱暴に腰を突き上げる。内奥深くをぐうっと突き上げられ、たまらず和彦は上擦った声を洩らす。ゆっくりと何度も弱い部分を突かれているうちに、熱くなった和彦の欲望の先端からトロトロと透明なしずくが滴り落ちる。
「こういう姿、伊勢崎玲にも見せたんですか? 純朴で、まじめそうな印象の子でしたけど」
「そういう言い方をされると、心が痛む……。そんな子に、ぼくは――」
「そうですね。先生が狂わせた」
 揶揄するような中嶋の物言いに、反射的に反感を覚えたが、次の瞬間には甘い呻き声を洩らすことになる。内奥からズルリと熱いものが引き抜かれていた。中嶋が隣に横たわり、熱っぽい視線を向けてくる。
 意趣返しというわけではないが、中嶋をラグの上に這わせ、腰を突き出した姿勢を取らせる。和彦は遠慮なく背後から中嶋を犯した。
「あっ……、うぅっ、うっ、うくっ……」
 洩らされる苦痛の声に、いつもの和彦なら怯んでいただろうが、今はむしろゾクゾクするような快感があった。
「――……本当は、〈こっち〉の気分だったんだろう? 中嶋くん」
 きつく収縮する肉を押し開き、自分の高ぶる欲望をねじ込みながら和彦は囁きかける。ひくりと中嶋の背がしなり、和彦のものを締め付けてくる。優しくはしてやらなかった。中嶋の腰を掴み、乱暴に内奥を突き上げる。そのたびに上がる苦しげな声が耳に心地いい。
 単調な律動を繰り返しているうちに中嶋の肌が赤く染まっていき、上がる声に艶が加わる。和彦は深く息を吐き出すと、内奥深くをじっくりと突き上げ、掻き回すように腰を動かす。
「いっ……い、です。先生、それ、いい……」
 物欲しげに和彦の欲望に襞と粘膜が吸い付き、絡みついてくる。
「ああ、ぼくも、気持ちいいよ」
 しっかりと根本まで欲望を埋め込んでから動きを止めると、中嶋のほうから腰を擦りつけてくる。なかなかの痴態っぷりにひっそりと笑みを洩らした和彦は、ふっと人の気配を感じる。なぜか危機感も芽生えず、緩慢にドアのほうを見ると、加藤が立ち尽くしていた。二人を見る目に嫌悪でもあれば慌てたのかもしれないが、加藤はただ魅入られたように一心に見つめている。
 中嶋も加藤の存在に気づいたのか、内奥が淫らに蠢き、きつく和彦のものを締め付けてきた。
「……夜は誰も来ないんじゃなかったのか」
 返ってきたのは中嶋の抑えた笑い声だった。和彦は軽く嘆息すると、加藤に向けて口元に人さし指を立てる。あえて指示しなくとも、加藤なら声をかけてくるなど無粋なまねはしないだろうが、念のためだ。
 加藤が見ている前で、かまわず和彦は律動を再開し、せがまれるまま内奥深くに精を注ぎ込んだ。同時に、中嶋は自らのものを手早く扱いて果てる。すぐに体を離して、中嶋とともにラグに倒れて呼吸を整える。
 シャワーを浴びる時間はあるだろうかと、少し冷静になって心配していると、中嶋が気だるげに加藤に指示を出す。玄関の外で、これからやってくる長嶺組の組員に少し待つよう伝えてくれというものだ。加藤の登場のタイミングからして、中嶋は長嶺組からの連絡を受けたときに、ついでに加藤も呼びつけていたのかもしれない。
「――……加藤くんに見られてしまった……」
 玄関のドアが閉まる音を聞いて、和彦は軽い自己嫌悪に陥りながら呟く。一方の中嶋は悪びれない。
「いまさらでしょう、先生。俺たちはこうやって、信頼関係を深めてきたんじゃないですか」
『俺たち』の中に加藤も引き込むつもりなのか、中嶋は行為のあととは思えない鋭い笑みを浮かべていた。
 かつて中嶋には、賢吾との行為を見られたことがある。信頼関係というより、共犯関係ではないかと言いたかったが、その前に中嶋に急かされバスルームに追いやられていた。









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