と束縛と


- 第50話(2) -


 土日はたっぷりと賢吾と怠惰に過ごした。もともと和彦は予定がなかったし、賢吾も仕事をする気はなかったということで、ある意味二人とも気合いが入ったのだ。
 買い込んでいた食料とアルコールを消費しつつ、ときおり情欲に身を任せ、それ以外では買い込んだ本を読んだり、他愛ない会話をしたり。スマートフォンの電源も切っておいたので、どこからも連絡は入らず、部屋に直接やって来る人間もいなかった。おそらく賢吾が、組員によほど太い釘を刺しておいたのだとは思うが、和彦もあえて指摘はしなかった。
 日曜の夜にようやく部屋を出ようかというところで、賢吾がさっぱりした口調で放った言葉を思い返す。
『――決めた。この部屋は手放す』
 帰りの車中で賢吾は、こう結論を出すに至った心情を語った。部屋を手放す踏ん切りや理由が必要だったが、所有していて差し障りがあるわけでもなく、なんとなくここまで来てしまったのだ。それが、和彦と部屋で過ごしたことで、ようやく背を押された気持ちになったのだという。欲しがるなら千尋に譲ってもいいとは言っていたが、幼少期からの数年間、週に一、二度過ごしていたときとは様相が一変した部屋に、果たして千尋自身が愛着を持っているのか、父親である賢吾にも疑問らしい。
 反抗期の証だったというなら、別に所有したままでもいいのではないかと、和彦は率直に疑問をぶつけてもみたが、賢吾はニヤリと笑ってこう言った。
『何より手がかかって、目が離せないものが側に在るからな。できるうちに身軽にしておかねーと』
 これを賢吾の薄情さから出た言葉だとは、和彦は思わない。長嶺組と共にあるために、何かしらを削ぎ落とし続けてきたであろう男にとって、あの部屋は組の外に存在しているものとして必要――というより、ただ在り続けたものなのかもしれない。在り続けるから、反抗期の証などというもっともらしい理由を与えたのか。
 そして今度は和彦が、賢吾の側に在り続けることになる。さまざまな経験や思い出を積み重ねながら。
 意識しないまま口元が緩みそうになり、マスクの下でぐっと唇を引き結ぶ。酷薄そうな見た目に反して情が深い大蛇の化身のような男を想って、にやついている場合ではないのだ。
 クリニックでの仕事を終えた和彦は、総和会から回ってきたもう一つの仕事をこなしている最中だった。
 目の前では、神妙な顔をした三十半ばの男がうろうろと視線をさまよわせている。和彦は、男の顔の横に掲げられた顔写真にちらりと視線を向けてから、短く唸る。男の顔には医療用のペンによって額や頬などに印がつけられている。和彦がつけたものだが、もう一度写真を見比べてから、あごのラインに沿って数か所にも印をつけた。
 本人いわく痛みに弱いということで、トレーに並ぶ注射器を一瞥して男は今にも泣き出しそうな顔となるが、立ち会っている総和会の構成員は誰一人表情を変えない。和彦も淡々と、施術を行う。
 総和会からの依頼は、男の顔を、顔写真の顔に近づけてくれというものだ。いまさら詳しい事情を聞いたりはしないが、顔写真付きの身分証明書が関わっているのではないかと推測できる程度には、和彦はこの手の仕事をこなしていた。賢吾の側に在り続けるとは、つまりこういうことだ。
 急ぎ仕事なのは明らかで、一時的に見た目を変えろと言われて取れる手段は限られる。和彦が製剤入りの注射器を手に取ると、男がくぐもった声を洩らす。とてつもない痛みを覚悟しているようだが、昼間は一般の女性、ときには男性が意外に手軽に受ける施術で、体に負担はかからない。害のない製剤を皮膚の奥に注入するというもので、頬をふっくらさせたり、あごに丸みを持たせたり、鼻を高くしたりできる。男の場合は額にも打って、全体としてふくよかな印象を持たせる施術となる。メスを入れる場合とは違い、数か月も経てば製剤は自然に体に馴染んでなくなり、顔も元に戻るのだ。
 用意した注射をすべて打ち終えてから、念のため体調変化を見るため、一旦待機となる。さんざん注射を打たれて精魂尽き果てた様子の男に、付き添いの男たちが揶揄めいた声をかけている。
 和彦はその光景を横目に見ながら処置を行った部屋を出ると、殺風景ともいえる小部屋に入る。一応ここが休憩室のようだが、置かれているのはパイプイスと折り畳み机だけだ。大がかりな施術を行ったわけでもないため、クリニックに来てもらったほうが手間がかからなかったのではないかと思わなくもないが、総和会としては、ほんの数日前の騒動でピリピリしているのかもしれない。もちろん騒動とは、クリニックに玲が――伊勢崎組組長の息子が押しかけてきた件だ。
 あらかじめ準備されていたお茶のペットボトルを手に取ると、一気に半分ほど飲む。気が抜けた途端に空腹を自覚した。いつもなら遅い夕食をどうしようかと悩むところだが、今日は事前に笠野から連絡があり、カレーのお裾分けをマンションに届けてもらうことになっている。おそらくもう、鍋に入ったカレーと、炊き立ての白米が和彦の帰りを待っているはずだ。業務用の大鍋で作られる本宅のカレーは美味しいのだ。
 カレーのことを考えて、ますます空腹感が強くなってくる。アタッシェケースの中に、クリニックのスタッフからもらった飴を何個か入れたままにしていたことを思い出し、手を伸ばしかけたとき、そのアタッシェケースの中からスマートフォンの着信音が聞こえてきた。慌てて取り出して相手を確認して、軽く目を瞠っていた。
『――夜分にすみません』
 電話を通して聞こえてきたのは、微かな関西弁のイントネーション。和彦はなんとなく背を丸めて応じていた。
「いえ、大丈夫です。こちらはちょうど〈仕事〉が終わったところなので」
『わたしのほうは、たった今、和泉家の屋敷から戻ってきたところです』
 九鬼と最後に会ったのが、和泉家の屋敷だった。葬儀後も総子の指示でやることがあると言っていた。それからずっと滞在していたのかと思ったが、聞けば、行ったり来たりしていたというのだ。九鬼が和泉家と関わりが深い仕事をしているにせよ、すでに何事もなかったように日常生活を取り戻している自分と比較してしまう。後ろめたさを押し隠しつつ、和彦は問いかけた。
「あの……、おばあ様の様子はどうでしたか? 体調を崩されたりとかは……」
『賀谷先生がよく立ち寄ってくださっているので、心配ありません。食は細くなっていますが、精神的なもののようで、これはもう日にち薬に期待するだけです。むしろ心配なのは、娘さん――和彦さんのお母さんのほうですね。体調を崩して寝込まれて、初七日を終えたあとも数日ほど滞在されていました。当然かもしれませんが、ずいぶんと参っていました。総子さんともほとんど会話をされずに……』
 総子と連絡を取ったときに何も教えてくれなかったのは、心配をかけまいとする配慮だったのだろう。もしくは、教えたところで和彦はあてにならないと判断されたのだろうかと、自虐めいたことが頭の片隅を過る。案外、佐伯家の男全員がそう思われている可能性もある。
 とにかく、総子ではなく、綾香のほうが床についていたとは思いもしなかった。気になるため一度実家に顔を出したほうがいいかもしれない。歪な形で成り立っている家族ではあるが、情がないわけではないのだ。
『それと……、和彦さんのお兄さんが来られてましたよ。和彦さんのお母さん――ああ、もう、名前で呼ばせてもらいますね。英俊さんが突然来られて、ずいぶん長い間、一人で祭壇の前に座られてました。そのあと、綾香さんと一緒に帰られたんです』
 寸前の、佐伯家の男に対する失礼な想像は取り消しだ。英俊はきちんと綾香を気遣っていた。
 薄情なのは自分かと、和彦が洩らしたため息をどう受け止めたのか、九鬼は穏やかな口調でこう言った。
『家族であろうと、事情はそれぞれ。思いやりの示し方もそれぞれですよ』
「……ぼく、何も言ってませんよ……」
『心の声が聞こえた気がしたんですが』
 食えない男の食えない返答に、和彦は力なく笑っていた。疲労と空腹が重なって、気を張ったやり取りはできそうになかった。
「わざわざ知らせてもらってありがとうございます。明日にでも、おばあ様と母に連絡してみます。それでは――」
『ちょっと待ってください。本題はここからです』
 和彦は、今度は背筋を伸ばしてパイプイスに座り直す。
『総子さんから、和彦さん宛ての荷物を預かっています』
「荷物、ですか……?」
『えー、佃煮に漬物、それに梅シロップも。何かしていないと落ち着かないとおっしゃって、作られてましたよ。わたしもお裾分けでいただきました』
 佃煮といえば、鷹津とログハウスで過ごしていた頃に、総子から送ってもらったことがある。おにぎりの具にして美味しかったことを思い出していると、腹が鳴った。
『早いうちにお渡ししたいので、会えませんか? ちょうど、ご相談したいこともありますので』
 一体何事かと問いたかったが、そっとドアが開いて、総和会の構成員が顔を覗かせる。用があるのだと察して立ち上がりながら、和彦は早口に告げた。
「土曜日の午後からでかまいませんか? えっと、先日訪ねたあのオフィスに行けばいいでしょうか」
『どこでも大丈夫ですよ。指定してもらえば、こちらが出向きますので』
 そうは言っても、荷物の受け渡しと相談事があるとなれば、九鬼が普段詰めているという『S&A合同会社』のオフィスが一番無難だ。
「いえ、大丈夫です。ではお昼過ぎにうかがいます」
 約束を取り付けて電話を切ると、ほっと一息ついてから和彦は急いで小部屋を出た。




 九鬼に会いに行くと電話で報告したときの、賢吾の微妙な反応が気になっていた。機嫌を損ねたというわけではないが、快く送り出すというには奥歯にものが挟まったような物言いだったのだ。もしかして和彦の予定を押さえたかったのだろうかと問うてみたが、それは否定された。やはり奥歯にものが挟まったような物言いで。
 気にはなるが、会うのをやめるという選択肢はない。九鬼は和泉家の関係者で、今後和彦は何かと世話になるため、礼を欠く対応はしたくなかった。
 ちなみに今日の手土産は水羊羹だ。何にしようかとデパートの食品売り場をうろついていて、涼しげな見た目に惹かれて購入していた。今日の天候は薄曇りだが、とにかく蒸し暑いのだ。
 手で首元を扇ぎながら、『S&A合同会社』のオフィスが入るビルのロビーに足を踏み入れると、予想外に人の姿が多い。漏れ聞こえてくる会話の内容から、同じビルの中にあるカルチャーセンターの生徒たちだと見当をつける。肩身を狭くしながらエレベーターに一緒に乗り込んだ。
 五階で降りると、前回同様、九鬼が廊下で待ち構えていた。今日は、フードパーカーにカーゴパンツ、それにスニーカーというラフさをきわめたような格好だが、全体の色合いが落ち着いているせいかなんとなくシックで品よくまとまっている。そもそもスタイルがいい男なのだ。だらしない格好をしたところでそれなりに様になるはずだ。
 ドアを開けながら九鬼が言う。
「――一階、にぎやかだったでしょう?」
「カルチャーセンターの生徒さんたちみたいですね。けっこう年配の女性が多かったです」
「午後からフラダンスの教室みたいですよ。他に、生け花もやってたかな」
 心底興味なさそうに教えてくれる九鬼が、少しだけおもしろい。オフィスの奥へと進みながら、和彦は口元を緩めていた。
 今日はオフィスに、前回見かけた中年の男女の姿はなかった。部屋を区切っていたパーティションは壁際に押しやられ、大きなテーブルの周囲が開放的に感じられる。
 テーブルについた和彦の前に、すかさず冷蔵庫から出した缶コーヒーが置かれた。これは前回通りだ。手土産を渡すと、九鬼は中身を確認して、速やかに冷蔵庫にしまった。代わって保冷バッグを差し出される。中を確認して表情を和らげていると、九鬼は当然のように隣に座った。
「総子さんからの預かりもの、確かに渡しましたよ」
「はい、受け取りました」
 これで用事の一つは済んだ。和彦が視線を向けると、九鬼ににっこりと笑って返される。
「あの……」
「まあ、そう、慌てなくても。どうせ今日はわたしらだけなので、ゆっくりしてください」
 ということは、見えないところで烏丸も待機しているようだ。横顔に九鬼の視線を感じつつ、和彦は缶コーヒーを開ける。
 オフィスは静かだった。もとより活発な活動が求められる会社ではないだろうし、肝心の社員がいない。同じフロアの他の会社も似たような業務実態だと言われたら素直に信じてしまいそうなほど、廊下を行き交う人の気配もない。
 相談したいこととはなんだろうかと、ちらりと横目でうかがうが、九鬼は口元を綻ばせて和彦を見ている――いや、観察している。
 くだけた雰囲気の、感じのいい話し方をする男の正体は、自称・元ヤクザだ。そのことを思い出すたびに、和彦はヒヤリとする感触に首筋を撫でられるのだ。
「あと一週間ほどすると、総子さんからわたし宛てに郵便が届きます」
「……えっと、それは……?」
「四十九日法要の案内状です。内容は、総子さんから和彦さんに宛てたものですが。和彦さんの今の住まいを知ってはいますが、直接郵便で送るのは避けておいたほうがいいかと判断しました。おそらく、和彦さんを庇護されている方によって、配達物は逐一チェックされますよね?」
『庇護』とはずいぶん迂遠というか、遠慮した表現をしてくれるなと、和彦は苦笑いする。
「他人に最初に目を通されるならと、わたし経由で手渡しすることになりました。日時や会場など秘密にするわけではないですが、気持ち的なものです。身内の儀式であって、それ以外の人間を介在させたくないといいますか」
 総子や九鬼の配慮を大げさだとは思わなかった。物騒な男たちに囲まれて生活していると麻痺してくるが、堅気とヤクザとの関わりは本来細心の注意と慎重さが必要なのだ。
「忙しいときに、気をつかわせてしまってすみません」
「かまいません。和泉家の人たちのために動くのが、わたしの仕事ですから」
 にこやかに言い切った九鬼の目が、やけに強い圧を放って和彦を見据える。言外に、『和泉家の人たち』の中に和彦も含まれていると言われたような気がした。
「本当は、今回の品と案内状を一緒に渡せたらよかったんですけど、食品ですから早いほうがいいかと思いまして」
 届いた案内状を手渡しするため再び九鬼に会うことになるが、これについては事前に連絡を入れてもらってから、クリニックの近くで昼休みにでも落ち合うことが決まった。用事としてはおそらく一分もかからず済むものだ。どうやら相談したいこととは、このことだったらしい。
 ここで和彦は小首を傾げる。つられたように九鬼も同じ仕種をする。
「あの……、もしかして、今日の用って、ここで会わなくても済んだのでは……」
「済みましたね。でも、こうやって落ち着いて話はできなかったはずですよ。あっ、わたしと同じ空気を吸うのも嫌とかあります?」
 本気で言っているわけではないのは、九鬼の大きくて薄い唇に浮かんだ笑みを見ればわかる。少々の軽薄さを含んだ関西弁のイントネーションも有効だ。しかしきわどい冗談だ。意趣返しではないが、和彦はまじめで真摯な言葉で応じた。
「そんなこと思いもしません。九鬼さんには感謝しています。おばあ様が信頼している人だとわかっているからこそ、ぼくも信頼していますし。むしろ九鬼さんのほうこそ、ぼくと同じ空気を吸うのが本当は嫌なんじゃないかと心配です。和泉家に厄介事を呼び込みかねない存在ですから――」
 驚いたように九鬼は目を丸くしてから、とんでもないと言うように顔の前で手を振る。大げさな動作に和彦は堪えきれず噴き出していた。
「冗談です」
「……優しげな顔してけっこう食えないですね、和彦さん」
「九鬼さんに言われたくないです」
 互いに顔を見合わせてから、引き分けということにしておく。
「でも、九鬼さんに危惧を抱かれても仕方ないと思っています。実家の家族もですが、おばあ様にも余計な気苦労をかけているのは確かですし」
「ご心配なく。言い方は悪いですが、皆さん共犯ですよ。あなたをパージして何事も円満に片がつくなら、そうしています。だけどどちらのお家の主もそうしろとおっしゃらないということは、和彦さんは必要とされているんです。堂々としてください」
『共犯』という言葉に反応する。総子から、和泉家だけでなく、佐伯家の事情をどの程度まで知らされているのだろうかと、目の前で寛ぐ男の心の内を測りたいが、あいにく和彦では経験値が足りない。
 どう探りを入れようかと考えあぐねていると、ふいに人の気配がする。振り返ると、紺色の開襟シャツ姿の烏丸が立っていた。目が合うと、軽く会釈をされる。
「終わりましたか?」
 問いかけたのは九鬼で、うんざりした顔で烏丸が頷く。
「ひとまず相手は納得した――させた。口下手な俺に交渉事をさせるなよ」
「だからこそ、言葉に重みがあるんですよ。烏丸さんは」
 褒められても嬉しくないと言いたげに、烏丸が肩を竦める。どうやら別室で仕事をしていたらしい。
 ふむ、と声を洩らした九鬼が腕時計に視線を落とす。用は済んだようなので、想定より早いがこれでお暇しようかと和彦が腰を浮かせかけたところで、九鬼が胡散臭い笑顔とともに提案してきた。
「和彦さん、釣りに行きましょうか」


 九鬼から『釣りに』と誘われて頭に浮かんだのは、連休前に同じくオフィスで言われた『餌を撒きに』という言葉だった。
 何か深い意味が込められているのではないかと勘繰り、誘いを断らなかったのだが――。
 アウトドアチェアに腰掛けた和彦は、糸を垂らした釣り竿をゆっくりと上下に動かす。陽射しを受けて海面がキラキラと輝いていた。少し前まで薄曇りだったが、車で移動する間に頭上の雲はどこかに行ってしまった。
「――息抜きで、たまに来るんですよ、この辺り」
 隣でコンクリートの上に直に座り込んだ九鬼は、慣れた手つきで針に餌をつけている。
 海上に張り出す形で数十メートル続く堤防には、同じく釣り人の姿が見える。出足が遅かったせいか、空いたスペースを見つけるのにちょっと難儀したぐらいだ。土曜日ということもあってか、父親に連れられた小学生ぐらいの子供の姿や、中学生だけのグループなどがおり、ときおり歓声を上げて楽しそうだ。
 視線を少し先に向ければ、漁港が見える。釣果がなければ、漁港近くに並ぶ鮮魚店で買って帰りましょうとすでに九鬼に言われていた。
「だから、車のトランクに釣り道具を入れているんですか」
「考え事をするのにいいんですよ。海を見ていると、なんとなくストレスも軽くなってきますし。ただ、これからの季節はちょっとつらいですね」
 それはそうだろう。すでにもう暑いのだ。今、和彦の頭には、途中で立ち寄った釣具店で餌と釣り針と一緒に買った麦わら帽子がのっている。九鬼はつばの長いキャップで、今日のラフな服装も相まって妙に似合っている。そもそも最初から釣りに出かけるつもりだったのだろう。事前に教えていてくれれば、和彦もそれなりに楽な格好をして行ったのだ。
 スラックスで地面に座らせるわけにはいかないからと、アウトドアチェアを貸してくれたので文句はないが。
 烏丸のほうは、保冷バッグを置きっぱなしにはできないともっともらしいことを言って、車で待機している。とはいえ、気を使ってくれて、手洗い用の水を汲んできてくれたり、飲み物を差し入れてくれたりと、短時間のうちでもちょこちょこと顔を出してくれる。
 気楽に釣りを楽しみたいということで、九鬼のお勧めはサビキ釣りだった。小さなカゴに餌のオキアミを詰めて海に放り込むだけ。いくつもついた仕掛け針に餌と間違えて魚が食いつくという寸法で、子供ですら簡単に釣り上げている。つまり、和彦でも釣れるということだ。
「なかなか上手いじゃないですか」
 針にかかった小ぶりなアジを布越しに掴んで外していると、軽い調子で九鬼が褒めてくる。二人の間に置いてあるクーラーボックスは、短時間のうちにすでに底が見えない程度には釣果があった。
「そういえば、綾香さんには電話はされましたか?」
 海中の魚の動きに目を凝らしていた和彦に、唐突に九鬼が問いかけてくる。一体なんのことかと戸惑ったのは一瞬で、すぐに九鬼から電話をもらったときのやり取りを思い出す。
「……ええ、はい。兄が病院に連れて行って、点滴を打ってもらってからはだいぶ調子はよくなったそうです。疲れもあったようですが、脱水症状が出ていたようで」
 大したことがなかったのは幸いだが、やはりまだ気になるので、近々実家には顔を出すつもりだった。和彦がこう言うと、九鬼はそれがいいと大きく頷く。
 針に魚が掛かって釣り竿を引き上げると、丸く膨らんだ小さなフグだ。見た目は可愛いが、当然リリースだ。
 三十分ほど釣りを楽しんでいたところで、唐突に魚が餌に食いつかなくなる。思わず身を乗り出して海を覗き込んでいると、のんびりと九鬼が笑った。
「ちょっと満腹になったみたいですね。慌てなくていいですよ」
 ここは経験者の言に従うべきだろう。和彦はちょっとした休憩のつもりで、傍らに置いたペットボトルに手を伸ばす。水を飲みながら、首にかけたタオルで汗を拭う。和彦の反対隣で釣りをしていた家族連れは、魚が釣れなくなったのをきっかけに、もう帰りたいと子供にせがまれて片付けを始めた。
 家族連れが立ち去ってから、九鬼がさりげなく周囲に視線を向ける。人の耳を気にしなくていい程度ににぎわい、すぐ側に釣り客もいないことを確認してから、九鬼はわずかに和彦との距離を詰めてきた。
「――楽しい内緒の話をしましょうか、和彦さん」
 どことなく軽薄さを感じさせていた関西弁のイントネーションが、この瞬間不穏さを帯びる。和彦はアウトドアチェアの上で身じろいだあと、おそるおそる隣をうかがい見る。とっくに餌がなくなったのに釣り竿を上下させながら、九鬼はこちらを見て薄笑いを浮かべていた。
「楽しい、ですか……」
「和彦さんが相続するキリエ和泉ビルがある地区のいわく、知ってますか?」
「うっすらとだけ。長嶺の人間から聞きました」
「いわくと言っても、この間見てもらったように、今はもう怖い場所ではないんですよ。殺されたヤクザが化けて出るとも聞きませんし、わたしも見たことありませんし」
 際どい冗談に和彦は乾いた笑い声を洩らす。
「確かに昔はヤクザが事務所を構えてたようですが、桐栄区で大規模な地域の浄化作戦が行われたときに、一旦立ち退いたそうです。が、すぐにまた派手に揉めて、下手すると自分たちの業界全体の排斥運動に至りかねないと危惧して、名のある組のいくつかが仲立ちする形で収まったというわけです。そのとき、騒動に加わったヤクザ連中と仲立ちしたヤクザたちが血判状をしたためたとか言われてます。まあ、収まりはしたけど、どうしても忌避感ってのは生まれるんですよ。ヤクザどもが大暴れした土地に対して。――さて、ここからが本題です」
 悪戯っぽく九鬼が目を眇める。話に集中したくて、一旦針糸を引き上げて釣り竿を足元に置いた。
「和泉家があの土地と関わりを持つに至った経緯です。昔からつき合いのある銀行から、担保物件として所有していたビルの扱いで泣きつかれたそうです。バブル景気なんて起こる前の時代ですからね。右から左に流して儲けられるわけじゃなかったんでしょう。ご夫妻は手を出すつもりはなかったんですが、とりあえず見学に行ったそうです。小さなお嬢さん二人を連れて。本当の目的は、帰りにデパートでお二人の洋服を買うことだったみたいですが」
 ずいぶん昔の出来事のはずなのに、九鬼の口から語られる話から、ありありと当時の光景が想像できてしまう。できることなら、和泉家の面々が揃ったときに本人たちの口から聞きたかった。
「当時、あのビルはひどい有り様だったようです。追い出されていたとはいえヤクザが根城にしていたわけですから、ほとんど要塞化されていたと、正時さんが笑いながら話してましたよ。当然ながら、そんな物件に好き好んで入るテナントはいません。銀行への義理は果たしたと和泉家の皆さんは引き上げたんですが、なぜか、紗香さんがその日はずっとはしゃいでいたんだそうです。理由を聞いたら、ご両親があのビルを遊園地にするつもりなんだと勘違いしていたみたいなんです」
「……なんでまた……」
「今はもう見かけなくなりましたかね。昔はあったでしょう。デパートの屋上に小さな遊園地が。そこで遊ぶときはずいぶんはしゃいたようで、そのせいじゃないかと」
「デパート好きだったんですね」
「忙しいご両親と一緒に出掛けられる、数少ない場所だったんじゃないですか」
 和彦はふふっ、と声を洩らして笑う。ビルを、自分が遊べる遊園地にしたいとは、子供の勘違いとはいえとんでもないお嬢様だったのだと思うとおかしかったのだ。そんな和彦を、九鬼がじっと見つめている。急に気恥ずかしさに襲われ、言い訳のようにこう言っていた。
「実母のことをほとんど覚えていないし知らないので、何を聞いても新鮮なんです」
「わたしは当然、紗香さんとお会いしたことがありません。ですが、和泉家の屋敷に出入りしているうちに、ご夫妻だけでなく、ご近所の方々から教えてもらったんです。可愛がられていたようですよ、お嬢さん方。……総子さんや綾香さんに直接聞きにくいというなら、わたしにどうぞ」
 それはそれで抵抗があるなと和彦が困惑して見せると、九鬼は軽く肩を竦める。そして、無意識の行動なのかフードパーカーの袖を捲り上げた。突如露わになる艶やかな赤い牡丹の刺青に和彦はぎょっとする。
「おっと、失礼。暑くてつい……。一応、TPOはわきまえて、肌を見せる相手と場面は選んでいるんですが」
 九鬼が袖を戻そうとしたので、つい止めてしまう。すると、妙な色気を湛えた眼差しを寄越された。
「いいんですか。墨入れているような輩(やから)と一緒にいると思われて」
「……派手な柄物のシャツを着ていると思ってくれますよ。九鬼さん、見た目は輩とは程遠いので」
 九鬼は声を上げて笑ったあと、結局さりげなく袖を下ろしてしまった。
「話の続きですが、紗香さんの思い違いも何かの縁だろうということで、ビルを購入したそうです。今は荒れていても、遠からず地区全体が開発されるだろうと読んだうえで。実際、そうなったわけです」
 紗香が年若いうちはテナントの一つで店を開かせるつもりだったのだという。それが花屋だったと聞いて、和彦はどういう顔をすればいいのかわからなかった。
「遊園地は?」
「子供の頃の夢なんて、ころころ変わるものですよ。……姉妹揃って、小学生のときにお花屋さんになりたいと言っていたのが、ご夫妻の印象に残っていたそうです。少しですが開店の計画は進んでいたみたいです。紗香さんはときどきビルに足を運んで、花屋の経営に必要な勉強をして――。綾香さんはご自分で進路も就職も決められた分、紗香さんはご両親の気持ちに寄り添いたいと思ったのかもしれません」
 いわくつきのビルだ。手放そうと思えばとっくにしていたはずだが、それでも所有し続けていたのは、あのビルには多少なりと紗香の熱意や希望が込められていたからだろう。それと、家族の思い出が。紗香の子に相続させたいというのは必至の願いなのかもしれないが、和彦はそこにもう一つ、ある理由を見出していた。
 桐栄区に望郷の念を抱くヤクザなど今の時代にはいないだろうが、関東での活動拠点として利点を感じる者はいるはずだ。かつては物騒な人間たちが集っていたという場所だ。そこに再び火種を持ち込みかねないと疑われているのは、北陸の大組織の幹部である伊勢崎龍造。総和会の警戒ぶりから、和彦が知らない事情も関係している可能性もある。
 不穏になりつつある状況下で、娘との思い出が残るビルを和彦に継がせようとしているのだ。しかも、和彦がこの先を生き抜くための武器として。
 和彦の背後には、長嶺組だけではなく総和会がついている。何かいざこざが起こったとき、長嶺の男たちは決して見過ごしたりはしないと断言できる。
 和彦は誘蛾灯のように厄介な男たちを引き寄せるが、反面、その男たちに守られている。総子はいつから、どこまで狙ってビルを託そうとしているのか、落ち着いた頃にでも直接聞きたかった。
「――和彦さん?」
 身じろぎもせず考え込む和彦に、九鬼が声をかけてくる。我に返った和彦は、再び釣り糸を垂らす準備をしながら問いかけた。
「餌を撒きに、と言いましたよね。この間……」
「三人で物件を見て回ったときですね。ええ、はい、言いました」
 カゴを海中に落とすと、撒かれた餌に何事もなかったようにまた魚が寄ってくる。
「餌って、ぼくのことですよね。何か、釣れましたか?」
 九鬼は、やっぱり暑いですねとこぼしながら、フードパーカーの裾を思い切り捲り上げた。


 釣果はけっこうなものだった。大きめのクーラーボックスの半分が、釣った魚で埋まっている。和彦としては釣りができただけで満足で、魚はすべて九鬼が持って帰るものだと思っていたのだが、クーラーボックスごと譲られてしまった。当然、和彦は魚など捌けない。こうなると、泣きつける相手は限られていた。
「本当に、突然すみませんっ」
 電話の向こうで笠野が声を上げて笑っている。アジがたくさん釣れたのでこれから本宅に持っていっていいだろうかと相談したのだが、わずかな躊躇もなく快諾してくれて、正直ほっとした。本宅の生活サイクルをある程度把握しているが、普段であればそろそろ夕食の下ごしらえが始まっていたはずだ。
 電話を終えてほっと息をついた和彦は、辺りを見回す。ここは、堤防から少し移動したところにある休憩施設だった。ソフトクリームののぼりが出ているのを見て、九鬼が寄ろうと言い出したのだ。
 探すまでもなく、二人の姿はソフトクリーム売り場の近くにあった。ずらりと並んだテーブルの一つについており、家族連れやカップルたちに囲まれながらソフトクリームを舐めている。堂々と腕の刺青を見せた胡散臭い笑みを浮かべた男と、筋骨逞しい坊主頭の男の組み合わせは、どう控えめに見ても目立っている。悪目立ちのほうだ。
 あの中に自分も加わるのかと思いながらも、それなりにつき合いがいい人間だと自負している和彦は、ソフトクリームを買って同じテーブルについた。
「魚、どうでした?」
「大丈夫でした。帰りに本宅に持っていきます」
「量も多いですからね。フライにでもしてもらえば、すぐに平らげてくれますよ。組長の自宅ですから、住み込んでる組員も多いでしょう」
 事実だが、多少は周囲の耳も気にしてほしい。和彦は無表情を保ちつつソフトクリームを一舐めする。本宅に連絡したついでに、近くで待機してもらっていた護衛の車にも、今いる場所を合流地点として知らせておいたので、さほどかからず迎えに来てくれるはずだ。
 その間に、九鬼からしっかりと話を聞いておきたい。
「それで、さっきのぼくの質問ですけど――」
 堤防で一度尋ねたとき、運がいいのか悪いのか、急にまた魚が針に食いつき始めたため、話どころではなくなった。その後バタバタしているうちに、こうして休憩施設に流れてきたというわけだ。
 烏丸が、二人に交互に視線を向けてから、吸い込むようにソフトクリームを食べ終えると、コーヒーを飲んでくると言い置いてテーブルを離れた。大きな後ろ姿をなんとなく二人で見送る。
「見た目はいかついですが、あれでけっこうな紳士でしてね」
「優しいですよね、烏丸さん」
 さて、と呟いて、九鬼がひたと正面から見据えてくる。思わず背筋を伸ばした和彦だが、互いの手にあるのはソフトクリームで、なかなか締まらない。溶ける前に舐めながら話すことになる。
「――だいたいは、和彦さんが考えているとおりですよ」
「ぼくは餌として美味いんですか?」
「これ以上なく。和泉家のこちらでの代理人みたいな感じで、わたしもそれなりに顔が知られているんですが、揃ってうろうろしていれば、効果は抜群です」
 九鬼は目を細めてぞっとするような笑みを浮かべた。
「正時さんがお元気だった頃に聞いた話です。かつて、キリエ和泉ビルを欲しがった人がいたそうです。和泉家が手に入れて間もなくということですが、それでもけっこう昔ですね。地上げ紛いのこともされたそうで、腹に据えかねて相手の素性を調べてみたら、北陸の大きな組の代理人だったようです。そうこうしているうちに、その組がある組織に吸収された」
「……北辰連合会とか……」
「いや、まだですね。さらにその組織を呑み込んで、北辰連合会になるわけです。まあ、動きの激しい組織ですよ、あそこは。関東のどこかの大組織とは大違いです」
 返事のしようがなくて、和彦はソフトクリームにかぶりつく。
「桐栄区が開発されてからは、さすがに本業ヤクザが手出しできる規模ではなくなり、すっかり忘れていたそうです。和泉家は別件でややこしい相手と揉め事も抱えていましたしね。――紗香さんが亡くなってから、遠くから見守るしかなかったあなたが厄介な状況に見舞われ、どう手出ししようかと考えあぐねているうちに、当のあなたは物騒な人たちを手玉に取るようになった」
「ちょっと……、人聞きが悪いですね、それ。ぼくは、手玉に取られているほうです」
「謙遜しなくていいですよ。あなた自身がどう思おうが、〈彼ら〉はあなたを大事に扱い、事によってはあなたの意向をうかがっている」
 もちろん九鬼は褒めているわけではない。それどころか、柔らかな口調の中に棘を潜ませている。
 薄々、感じてはいたのだ。和泉家に雇われている九鬼は、当然和泉家の事情と安全を最優先に考えている。和彦は、何を引き起こすかわからない厄介者として内心では警戒されていても不思議ではない。それでも丁重に接してくれるのは、総子と正時の孫だから。そう考えれば、九鬼はかなり理性的、もしくは抑制的な人間だといえる。
「――……何か、怖いことを考えてますか?」
 九鬼に問われて我に返る。ソフトクリームが今にも手に垂れそうになっており、慌てて舐め取る。ついでに、首を横に振っておく。信じていないのか、軽くため息をつかれた。
「あなたが、北辰連合会ともつき合いがあるとは、想定の範囲を超えていました」
「いえ、つき合いはないです。……そこの幹部にあたる方の息子さんと、ちょっとした知り合いというだけで」
 九鬼は何かを言いかけてやめたあと、もう一度ため息をついてソフトクリームを食べ終える。それからやっと会話を再開した。
「ここ数か月、和泉家が窓口を任せている不動産会社に、キリエ和泉ビルへの問い合わせが何件か来ているんです。物件案内もしたそうですが、契約には至らず。まあこういうのはよくあることですが、探りを入れているようだったという話です。それに加えて、総和会っぽい人間もうろついて何やら調べているようで、何がなんやらという状況です。そこであなたをこれみよがしに連れ回してみたらどうなるか、反応を見たかったんですよ。結果、釣れたのは――というわけです」
「……総和会の動きについては、心当たりがあります」
「いいですね。いっそのこと、うちと総和会とで連絡網を築きますか。調査員を使う手間がいくらか省ける」
 聞いておきましょうかと和彦が答えると、九鬼はやや拍子抜けしたような顔をしたあと、テーブルに頬杖をついて視線を逸らす。和彦の視線は、牡丹の刺青に釘付けになる。
「桐栄区がやけに騒がしくなった原因は、あなたにあるはずなんですよ。ヤクザと因縁があるあの土地に目をつけたのはたまたまだったかもしれないが、キリエ和泉ビルが物件として魅力的というより、あのビルに関わるあなたを当て込んだと考えたほうがすっきりする。目的は、あなたを通しての総和会や長嶺組との接触」
「それは……わかりません」
「でも、あなたの口から北辰連合会の名が出た」
 とぼけているつもりはなく、和彦自身、北辰連合会――というより伊勢崎龍造の考えを確かめたわけではない。総和会が大がかりに情報収集に動いたうえで、見当外れということはまずないだろうし、龍造と近しい関係である御堂からはっきりと聞かされた。それでも確証は欲しいのだ。伊勢崎龍造と北辰連合会の間に諍いが生じて、息子の上京に託けて避難してきたというのも、外部の人間からはどれほど深刻な状況なのか量ることはできない。しかし、和彦側から動いて確かめるのは、明らかに出すぎた真似となる。
 難しい。率直な気持ちが表情となって出る。思いきり眉をひそめて唇をへの字に曲げると、九鬼は驚いたように姿勢を正した。
「すみません。ちょっと地が出ました。これじゃあ、尋問ですね」
「……九鬼さんは、それが仕事でしょう」
 遅ればせながら和彦はやっとソフトクリームを食べ終える。九鬼は申し訳なさそうに視線を伏せた。
「――……元ヤクザというのは、なかなか生きいくいんですよ。このご時世。潰しが効かないというんですかね。暴力を効果的に使う方法や、汚れた金を作る方法はいくらでも思いつくんですけど、そういうの、堅気の世界じゃ求められないでしょう? かといって、またヤクザに戻りたいかというと……もういいかなと。つまり、生きられる範囲がごく狭い人間なんです、わたし」
「はあ……」
 つい気の抜けた返事をしてしまう。
「ですから、今の環境は非常に心地いい。似たり寄ったりの境遇の人間ばかり集めた会社で、前職を活かした仕事に日々従事する。しかも、ご夫妻からの信頼と感謝も得られる。そういう日がずっと続けばよかったんですけどね……。必ず現れるものなんですよ。平穏を乱す存在が」
「そこにぼくも含まれていると言いたいんですね」
 あっさりと頷かれても、傷ついたりはしなかった。和彦にも嫌と言うほど自覚はあるからだ。それでも込み上げてきた感情を堪えるためぐっと唇を引き結ぶ。なぜか九鬼はふっと頬を緩めた。
「しかし、そんなあなたを守るのが、総子さんの生きる原動力になった。正時さんを亡くして、さらに拍車がかかるでしょう」
「それは……」
「紗香さんへの思い入れがそのままあなたに移ったというのもあるでしょうが、あなたは危ういと、総子さんはおっしゃってました」
 確かにここ数年はふらふらとして褒められた生き方はしていないなと、苦い表情となる。
「誰に対しても寄り添えて、だからこそ誰からも必要とされた結果、苦しむのではないか――。心当たりがあるんじゃないですか」
「……暗に、八方美人の自業自得だと言われている気が……」
 九鬼が肩を竦めたタイミングで、ふわりと鼻先をコーヒーの香りが掠める。いつの間にか傍らに烏丸が立っていた。その烏丸が向けている視線を辿ると、駐車場に護衛の組員たちの姿があった。ここで時間切れと言わんばかりに九鬼が立ち上がり、和彦も倣う。
 駐車場で和彦の身柄は長嶺組へと移り、保冷バッグとクーラーボックスも車に運び入れてもらう。
 自身も車に乗り込む前に、和彦は改めて九鬼と向き合う。複雑な心境ではあるが、世話になったことへの礼を述べる。
「もしかして、さっきのやり取りで和彦さんから嫌われたかもしれませんね」
「仮にそうだとしても、おばあ様があなたを信頼していることは変わらないんですから、ぼくとしては、一層嫌われないよう努めるだけです」
 スッと九鬼から表情が消える。その変化にぽかんとする和彦に代わり、側に立つ組員がなぜか身構えた。興味深そうに九鬼が呟く。
「あー、なるほど。そういうところが、ですか」
「……なんですか」
「いいえ。では気をつけてお帰りください」
 胡散臭さ全開の笑顔を向けられ、和彦は首を傾げつつ車に乗り込んだ。


 さほど遠出をしたわけでもなく、派手に立ち振る舞ったわけでもないが、疲労感が肩にのしかかる。それが顔に出ていたのか、いつもなら軽く会話を振ってくる組員たちは、移動の最中黙ったままだった。和彦としても、九鬼との込み入ったやり取りを話すわけにもいかず、だからといって何から何までお膳立てしてもらっての釣りの釣果を誇るわけにもいかず、外に目を向けてぼんやりとしていた。
 脳裏にちらつくのは、九鬼がさんざん見せつけてくれた艶やかな牡丹だ。あの刺青が、果たして腕にだけ彫られたものなのか、それとも体を覆わんほどに彫られたものなのか、気にならないといえばウソになる。ヤクザから足を洗った現在の立場で、あの刺青を消したいと考えたことないのだろうかと聞いてみたくもあった。余計なお世話だが。
 取り留めなく九鬼のことを考えていると、助手席の組員がスマートフォンを取り出してメッセージを確認し、ハンドルを握る組員と短く言葉を交わす。そのときこちらを少しうかがう素振りを見せた。
「何かあったのか?」
「先生があとどれぐらいで本宅に到着するかと、組長から連絡が来たもので」
 そんなに釣った魚が届くのを待っているのだろうかと、最初は呑気に考えた和彦だが、すぐにもたれかかっていたシートから体を起こす。
「組長から?」
「ええ、はい。今日はちょっと、特別な日と言いますか……」
 和彦はぎょっとして目を剥く。
「それって、ぼくがのこのことと本宅に押しかけたら、迷惑になるだろ。釣った魚さえ笠野さんに渡してもらえたら、ぼくは別に本宅に寄らなくても――」
「いやいやっ、そうじゃないんですっ」
 とにかく本宅に行けばわかると、やや強引に押し切られた。
 何が待ち構えているのかと和彦は戦々恐々とするが、車から降ろしてもらうという選択肢はない。
 賢吾か千尋に電話して聞いてしまおうかと考えもしたが、実行できないまま車は本宅に到着した。表は普段通りで、物々しい警戒態勢が敷かれている様子もなく、それどころか組員の一人がのんびりと箒で掃き清めている最中だ。こちらに気づいて、手を上げて寄越してきた。
 門の前に車を停めると、さっそく和彦の荷物を持った組員に促されて本宅の敷地に入る。防犯カメラで見ていたのか、玄関先に立つと同時に絶妙なタイミングでドアが開けられる。なぜか、正面の玄関ホールには賢吾と千尋が並んで立っていた。さらには数人の組員たちも。そのうちの一人である笠野は、玄関に入ると待ちかねていたように笑顔でクーラーボックスを受け取り、和彦に一礼して立ち去る。
 和彦はおずおずと長嶺の男二人に問いかけた。
「……ぼくの釣った魚を楽しみにしていた、というわけじゃないんだろう?」
 失礼なことに、賢吾と千尋は互いに顔を見合わせ失笑した。和彦は唇を尖らせる。
「もったいぶらずに――」
 教えてくれ、と続けようとした和彦の視線は、賢吾の背後からひょっこりと現れたものに釘付けとなった。子供だ。賢吾の腰の位置よりやや低いぐらいの身長で、周囲の男たちが大きいせいもあり、だからこそ存在が際立って見える。
 丸い目がこわごわとこちらをうかがっている。目が合うと、賢吾の腿に手をかけたまま背後に隠れるが、すぐにまた顔を覗かせる。年の頃は四、五歳ぐらいに見えた。身じろぐたびに薄茶色の髪がさらさらと揺れ、いかにも柔らかそうだ。色白で、まるで人形のように繊細な顔立ちをしており、パッと見ただけでは男の子なのか女の子かわからない。ただ、はっきりしているのは、とてつもなく可愛らしい子供だということだ。
 こちらをうかがい見る目は、千尋そっくりだった。鼻筋から口元にかけては賢吾と守光のどちらもを連想させられる。顔のどの部位にも長嶺の男の血を強く感じるが、子供特有の丸みを帯びた頬の輪郭と、華奢な手足が加わると、なんとも庇護欲をくすぐられるのだから不思議だ。
 堪えきれず和彦が笑みをこぼすと、賢吾が子供の薄い肩に手をかける。
「――ほら、挨拶をしろ」
 促されて、ようやく賢吾の背後から出てきた子供は、じっと和彦を見つめてから、ぴょこんと頭を下げた。
「こんにちは……」
 高く細い声は不安げに揺れている。和彦はできる限り優しい声でゆったりとした口調で話しかけた。
「こんにちは。もしかして君は、稜人くん、かな?」
 こくりと頷いた拍子に、また薄茶色の髪が揺れる。その頭を、千尋が慣れない手つきで撫でる。
 和彦は形容しがたい感動に襲われながら、これは確かに特別な日だと納得するしかなかった。









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