と束縛と


- 第50話(1) -


 心の準備を整える間もなかった。和彦はぎこちない動きで診察室に玲を招き入れると、他の患者に対するようにイスを勧め、記入してもらったアンケート用紙を眺めながら簡単な質問をする。
 診察室は二人きりではなく、看護師資格を持つスタッフも補助で同席するため、当然、個人的な会話は交わせない。玲もその辺りは心得ているのか、生まじめで初々しい様子で、和彦の質問に答えていく。
 相対していると、大学生になって髪型がおしゃれになったとか、少し表情が柔らかくなったとか、服装に気を使っているのだなとか、さまざまなことがわかる。それらは、元々際立っていた玲のきれいな顔立ちをより特別なものに見せ、こんな子が構内にいたらさぞかし目立つだろうなと想像してしまう。
 自覚もないまま口元を緩めていたらしい。玲が不思議そうな顔をしたので、慌てて和彦は表情を取り繕う。
「今回はカウンセリングということでよろしかったですか」
「そうです。――今年、田舎から出てきて大学に通ってるんですが、友達がみんなおしゃれなのもあるけど、肌とかピカピカで。俺も気をつけたほうがいいのかなって」
 玲の率直な物言いに、思わず和彦は笑みをこぼす。最後に会ったときから変わっていないのだなと、安堵していた。おかげで、少しばかり口が滑らかになっていた。
「大学は楽しいですか?」
 これはまだ緊張を解くための会話として通じるはずだ。傍らにちらりと視線を向けると、スタッフも表情を緩めている。
「楽しいと実感するには、入学してからまだあまり時間が経ってなくて。高校とはまったく違うし、俺は田舎から出てきたばかりなので、都会での生活に慣れるのも大変です」
 そうはいっても玲の場合、生活をサポートする人員が揃っているはずだ。誰かと同居しているのだろうかとふと気になって、つい和彦はこんな質問をしていた。
「今は一人暮らしを?」
 スッと表情を消した玲を見て、しまったと思った。他愛ない質問のつもりでも、玲にとっては自分の――というより父親である伊勢崎龍造の動向を探られていると受け止めるかもしれない。
「ああ、すみません。立ち入ったことを聞いて」
「いえ。一応一人暮らしですけど、世話焼きな身内が多いもので。今日も、バレないようにこのクリニックに来るのは大変でした」
「……馴染みがないと、胡散臭いところだと思われるかもしれないですね」
 相手はただの患者ではないだけに、会話が上滑りしているようで非常にやりにくい。いっそ玲の『世話焼きな身内』が引き留めてくれていたほうが、ありがたかったかもしれない。
 クリニックを開業してしばらくは、あらゆる事態を想定して長嶺組の人間がビルに張り付いていたのだが、いつしかそれも緩いものとなった。現在は、事前にこちらの行動予定を報告することで、それに合わせて護衛が外で待機していたり、車を寄越してくる。賢吾のことなので、和彦には知らせない形で人を巡回させるぐらいは指示していそうだし、総和会からは若い護衛が派遣されてときおり姿を見せる。つまりクリニック自体の雰囲気は安穏としていても、その周辺では常在戦場のような男たちが目を光らせているということだ。
 しかし玲は、たった一人でクリニックに突撃してきた。
 和彦は、行儀よくイスに腰掛けている青年をやや呆れて眺めてから、ひとまずタブレットを使ってカウンセリングから治療までの流れを説明する。玲が本気で美肌のアドバイスを受けたがっているとも思えないが、料金をもらう以上手を抜けない。さらに肌に機械を当てての肌診断も行うが、十代後半の青年として文句のつけようがない診断結果が当然のように出ると、もう笑うしかない。
「君の場合、保湿や日焼けに気をつけてと言うしかないですけど、デパートとかのメンズコスメを扱っているところで、アドバイスをもらったほうがいいですよ」
「先生はくれないんですか?」
 完全に虚をつかれた和彦は返事に詰まり、一方の玲はなんとも憎めない悪戯っ子のような表情を見せる。前回会ったときから少し砕けた性格になっただろうかと思いながら、動揺を鎮めた和彦はにっこりと笑い返す。
「今のところニキビもシミもシワもない肌に、施術はもちろん、あえてアドバイスも必要ないと思いますね。……あっ、脱毛は興味ありませんか?」
 和彦はぐいっと身を乗り出し、玲の顔を間近から覗き込む。数秒の間を置いて、玲は視線をさまよわせてから顔を赤くした。
「いえ、あの……、脱毛は、いいです、かな……」
 玲が赤面した理由にうっすらと思い当たったところで、和彦の頬もじわりと熱くなってくる。それを悟られる前にカウンセリングを終えた。
「興味のある施術がありましたら、またお気軽にどうぞ。今日のように説明させていただきますね」
 スタッフがドアを開けて一旦診察室を出る。玲がそれに続こうと、立って見送ろうとした和彦の側を通り過ぎる。ほんの一瞬の出来事だった。
「あっ……」
 和彦が思わず声を洩らしたときには、右手に小さな紙片を押し付けられていた。危うく落としそうになり反射的に握り締めたが、ハッとして顔を上げたときには玲は診察室を出て行ってしまう。あとを追いかけるわけにもいかず、動揺を押し殺しながらイスに腰掛ける。
 一人となっている今のうちにと、そっと紙片を開くと、細かい字がびっしりと書き込まれている。内容は、クリニックが終わったあと、和彦と二人きりで会いたいというものだった。しかも場所まで指定されている。行動を制限されがちな和彦に一応気をつかってくれたのか、ときどき通っているクリニック近くのファミリーレストランだ。
 面倒なことになるのは目に見えているので無視するのが賢明なのだろうが、ご丁寧なことに、来てくれないなら毎日クリニックに通うと書かれていては、こちらが取れる手段は限られる。
 和彦は大きくため息をつくと、紙片をスラックスのポケットに突っ込んだ。


 和彦の立場上、誘われたからといって無防備に出向くわけにもいかず、速やかに長嶺組の護衛に予定の変更をメッセージで伝え、次に、賢吾には判断を仰ぐメッセージを送る。こちらは文章を考えるのに少々頭を捻った。賢吾が玲に会うなと言えば従うしかないが、できれば二人で話してみたいという自分の気持ちが見透かされないか、気を使ったためだ。
 そわそわとしながら終業時間を迎えてから、いつもどおりに事務作業や掃除を手早く終えて、スタッフを送り出す。すぐにまたスマートフォンを取り出したが、いまだに賢吾から連絡は来ていなかった。仕事で手が離せないのであれば、そう不思議でもない。代わりに護衛からは、いつでも外に出て大丈夫だと短くメッセージが送られてきた。
 クリニックを施錠してから和彦が一階に下りると、今日はビルの前で長嶺組の護衛二人が待機していた。お疲れ様ですと声をかけられ応じようとして、ぎょっとする。いつもの護衛だけではなく、長嶺組の組員数人がスッと側に寄ってきたのだ。
「連絡を入れてもらって助かりました。ギリギリですが間に合いました」
「間に合ったって……」
「護衛二人じゃ心もとなかったので、何人か連れてきました。――正解だったようです」
 通りのあちこちに、こちらをうかがうようにして立つ男たちがいる。さすがに大げさすぎるのではないかと思ったが、そっと耳打ちされて顔が強張った。
「近くに、伊勢崎組の組員らしき人間もいます」
 バレないように、と玲は言っていたが、あちらはあちらでしっかり動向を把握されているらしい。もしくは、玲が和彦にうそをついたのか。
「……面倒なことになっているようだから、このまま帰ったほうがいいんだろうか……」
「いえ、組長からの伝言があります。『ぜひ会って話してこい』、と」
 賢吾は確かに忙しかったようだが、それは手回しのためだったようだ。大事になってしまったという後悔と罪悪感を噛み締めつつも、こうもお膳立てされてしまってはこのまま帰るわけにはいかない。
 和彦はアタッシェケースを組員に預けると、なんでもないふうを装いながら、ファミリーレストランへと向かう。途中、なんとなく顔に見覚えがある男とすれ違ったが、あれが伊勢崎組の組員かと記憶を手繰り寄せる余裕はない。
 店内に入ると、女性店員から席に案内されそうになり、待ち合わせだと告げる前に玲が立ち上がって手を振ってくる。微笑んだ店員に見送られるようにして玲の元に行った。
 玲の前にはすでにアイスコーヒーがあったため、速やかにドリンクバーを注文した和彦は、自分の分のオレンジジュースを入れてくる。改めて席についてから、辺りを見回す。
「店の中にはいませんよ。父さんのところの組員は」
 玲のこの言い方は少し新鮮だった。同じく組長の一人息子である千尋ならしない言い方なのだ。現役の大学生とヤクザの違いだなと、和彦は一人納得する。
 そして、正面に座る玲の顔を改めてじっくりと見つめる。さきほどは言えなかった言葉が口から出ていた。
「垢抜けたね」
 途端に玲が複雑そうな表情を浮かべる。世辞ではなく、実際そうなのだ。白いシャツの上からジャケットを羽織り、細身のパンツを身につけた姿は、シンプルな組み合わせながら野暮ったくないうえに育ちのよさも感じられる。
「あっ、いや、ごめん。前に会ったときは純朴な高校生だったから、そのギャップをどう表現していいか……。女の子からよく声をかけられるんじゃないか?」
「そんなこと、ないです」
「大学で友人はできた?」
「俺と同じように地方から出てきた男子たちと、よく一緒にいます。友人……と言っていいかな」
「サークルか部活には入った?」
「……いえ、どちらも入ってないです。なかなか忙しくて」
 玲の微苦笑を目にして、和彦は自省した。
「あー、これじゃあ、事情聴取だね」
「というより、うちの母さんと同じこと聞いてますよ、佐伯さん」
 乾いた笑い声を上げた和彦だが、すぐに深々と息を吐き出す。
「本当に、君が希望していた大学に合格できてよかったよ。ぼくが悪影響を与えたんじゃないかと心配だったんだ」
「――地元を離れられて、父さんの希望も叶えられたら一石二鳥だという程度にしか考えてなかったんです。今は、いい選択をしたと思っています」
「大学生活に満足してるんだ」
「それもありますけど、こうして佐伯さんに会えるようになったことが、何より嬉しいです」
 はっきりと玲から言われ、和彦は即座に反応できなかった。
 じっと玲が見つめてくる。熱の込められた眼差しはひたすらまっすぐで、いじらしさすら感じる。半年以上前に自分に向けてくれた玲の一途さや情熱が、時の経過と共に消えることを、和彦はささやかに惜しむ気持ちもありながら、それ以上に期待していた。薄情なようだが、魔が差したような繋がりなのだ。
 そう考えていたはずなのに、今こうして玲と相対しながら、はっきりとした危惧を抱く。玲という青年は、自分の手に負えない存在になろうとしているのではないか、と――。
 和彦の心の内を見透かしたわけではないだろうが、玲は年相応の愛嬌のある笑顔でこんなことを言った。
「男子、三日会わざれば刮目して見よ、ですよ。佐伯さん」
「……渋い言葉知ってるね」
 ズルズルと玲のペースに巻き込まれていることを自覚し、気を取り直すためにオレンジジュースを一口飲む。ほっと息を洩らしたついたついでに何げなく通りに面した窓に目を向けると、建物の陰からこちらをうかがう男たちの姿がある。そこから少し離れた位置にいるのは長嶺組の組員だ。
 見るからに緊迫した様子の男たちに、和彦は軽く眉をひそめる。少し前の玲の蛮勇を思い出したのだ。
「この間、無茶しただろう」
「無茶?」
「ぼくに……会いに来てくれただろう。この店の前まで」
 申し訳なさそうに玲が目を伏せる。一応、自覚はあるようだ。
「正直、君が伊勢崎組の人間を使ってぼくのことを調べさせていたというのは、けっこう……ショックだった。なんて手段を使ってるんだ」
「俺じゃなくて、父さんが勝手に調べさせたとは考えなかったんですか?」
「伊勢崎組長だったら、用があれば御堂さんを通してまた接触してくると思った。……先日のやり方は迂闊だ。おかげでぼくの周囲がピリピリして大変だったんだからな」
 すみませんと素直に頭を下げた玲に、さらにきついことは言えない。玲のつむじをたっぷり数十秒眺めてから、和彦はテーブルに身を乗り出して手荒く頭を撫でてやった。
「……もう、気は済んだだろう? こうして再会して、話もできた。ぼくは、君の元気そうな姿が見られて満足したよ。まっとうな大学生なんだから、自分から面倒事に突っ込むようなことは――」
「大学生という身分だからこそ、俺は自由だと思いませんか?」
 ぐっと顔を上げた玲と目が合う。眼差しの鋭さに一瞬和彦は怯む。
 同じような会話は、玲と体を重ねたときに交わしている。それでも言ってしまうし、玲も律儀に応じる。
「俺は、会いたいときに佐伯さんに会いたいんです。そのことで誰にも制限されたくない」
「いや、それは……」
「クリニックで俺の顔を見て、佐伯さんが少しでも嫌そうな顔をしたら、素直に帰るつもりだったんです」
「……実際、すごく困ったんだけど」
「それは気づきませんでした」
 そう言い切った玲が自分のスマートフォンをいきなり差し出してくる。意味がわからず和彦は首を傾げた。
「佐伯さん、今スマホ持ってますか?」
 和彦がジャケットのポケットからスマートフォンを取り出すと、玲に言われるまま操作する。あっという間に連絡先の交換が終わっていた。
「必要ないなら消してもらっていいです」
「……ぼくのスマホ、長嶺父子に全部チェックされているから、君の情報も流れることになるよ?」
「俺はただの大学生なので、スマホの番号ぐらい知られても、全然困りません」
 生まじめな顔で言い切られると、自らの手で玲の連絡先を消すことはできなかった。すべては、長嶺父子の判断に任せるしかない。
 少しだけ口元を綻ばせて自分のスマートフォンを見ている玲を、和彦はオレンジジュースを飲みながら眺める。玲との間にあったことはもう消しようがないが、せめてこの先の関係を変える努力はすべきだろう。年齢が離れすぎているため友人というのも不自然で、だったら何が最適なのかと頭を悩ます。
「――……君はこれからどうしたいんだ? 会いたいときにぼくに会いたいと言ったけど、それで何を望むんだ。こう言ったらなんだけど、発展的ではない、と思う」
 つい口から出た問いかけに、玲は軽く目を瞠ったあと、当然のように答えてくれた。
「好きなんです、佐伯さんのこと。去年の秋から、あなたのことばかり考えています。父さんはこういうのを、『骨抜きになった』と言うんでしょうけど」
「ぼくは……、君の一回り以上も年上なんだよ?」
「でも、長嶺組の跡目と俺は、そんなに歳は変わらないですよね」
 これも、前に同じようなやり取りをした。
 こんなに押しが強い子だっただろうかと思ったが、そもそも玲を深く知るほど一緒にいたわけではない。千尋が甘えながら自分の主張を押し通すのに対し、玲はただ一直線に向かってくる。搦め手で迫ってくる男たちのほうがまだ、打算含みで相手をしやすい。
 和彦の中には、玲を傷つけたくないとか、穢したくないとか、どこか庇護欲にも似た情があるのだ。
 さりげなく周囲に目を向け、念のため誰もこちらに注意を払っていないと確認すると、和彦は声を潜めて言った。
「君は……、お父さんの影響なのかもしれないけど、〈オンナ〉に夢を見すぎているんじゃないか。いまだに、君の中で美化されている気がする」
「俺の中で美化されていたとしても、こうしてあなたを目の前にして、俺はすごく嬉しいです。それはダメなことですか?」」
「ぼくは厄介な存在で、君は普通の大学生でありたいなら、これ以上関わるべきじゃない」
「俺のことを、心配してくれているんですね」
「……それは、当たり前だろう……」
 よかったと、玲はほっとしたように笑み浮かべる。断固とした態度を取るべきだと和彦も頭ではわかっている。それが玲のためであり、余計な揉め事を長嶺の男たちや長嶺組に持ち込まないためにも最善なのだ。
 そう、和彦が自分に言い聞かせていると、少し困ったように玲は眉を八の字にした。
「玲くん?」
「すみません。うそをつきました。ただの大学生なんて言って、俺、御堂さんのところ――総和会の第一遊撃隊でしたよね。そこの人たちにときどき尾行されています。監視というより見守られてる感じではあるんですが、それで……、それがわかっていながら、佐伯さんに会いに来ました」
 正直拍子抜けした。自分にも総和会からの護衛とも尾行ともつかないものがついていると教えたら、この青年はどんな顔をするだろうかと、少しだけ悪戯心を刺激される。そんな場合ではないと、わざとらしく咳払いをして邪念を振り払ったが、和彦は再び店の外へと視線を向けていた。
 長嶺組と伊勢崎組の男たちがいるなら、どこか離れたところで総和会の目があっても不思議ではない。
「――君、総和会の一部で、行動が予測つかないと評判らしいよ」
「ええっ……、そんな無茶をした覚えは……」
「御堂さんの、総和会の中で今置かれている立場は知ってる?」
「父さんから聞いてます」
「だったら、御堂さんがわざわざ人をつけてくれているんだから、無自覚に無茶をするんじゃないよ。ぼくも、心配だ」
 とはいえ、御堂が善意のみで玲に人をつけているわけではないと、さすがに和彦もわかっている。そういう大人の事情を呑み込んでの、あえての苦言だ。あまりに玲は危なっかしい。
 玲は納得しきれていないようだが、だからといって抗弁もしてこない。多少なりと警戒心が芽生えてくれたらと願わずにはいられない。
「無茶をするのは今日でやめます。次からはきちんと連絡して、佐伯さんと約束を取り付けるようにします」
 ううーん、と唸って和彦は首を捻る。それはそれでこちらが困るのだと言いかけたとき、テーブルの上に置いてある玲のスマートフォンの画面が光った。どうやらメッセージが届いたらしい。スマートフォンを取り上げた玲が、しまった、という顔をする。
「父さんからだ……」
 ぽつりと呟いて、顔をしかめながらメッセージを確認している。
「何て書いてある?」
「……めちゃくちゃ怒ってます。父さんには言わないで、今日ここまで来ましたから。でも――」
 二人揃って外の通りに目を向ける。外で待機している男たちは、必死で玲を追跡してきたのだろう。名も知らぬ男たちに対して急に労わりの気持ちが湧いてくる。本人は不本意だろうが、伊勢崎組の人間を引き連れてとなると、玲を普通の大学生と称するのはかなり無理があった。そこに総和会の第一遊撃隊も加わっているかもしれないとしたら、なおさらだ。
 物言いたげな和彦の視線を受け、玲はもごもごと言い訳のように呟いた。
「俺としてはバレないよう動いてたつもりですけど、行動を読まれてたみたいです」
「君についてる人たちは有能なんだよ。ほら、今から帰るって、お父さんには早く連絡するんだ。さらに大事になったら困るだろ」
 和彦の呆れた表情からさすがに危機感が芽生えたのか、玲は慌ただしくメッセージをやり取りをしていたが、急に大きくため息をついてガクリと肩を落とした。
「大丈夫、か?」
「すぐ帰って来いと言われました。帰ったら絶対、ぶん殴られます」
「顔はやめてもらうんだよ」
 本気で気遣う和彦に、玲は情けない顔をして頷く。財布を取り出そうとしたので、ここは自分が払っておくと告げる。
 立ち上がった玲が片手を差し出してきた。何事かと首を傾げた和彦を、ただじっと玲が見下ろしてくる。おそらく握手を求めているのだろうと察して、おずおずと手を握る。きつく握り返されて驚くと、玲が真剣な様子で切り出してきた。
「言おうかどうしようか迷ってたんですけど――、父さんが、佐伯さんと会いたがっています。あー、はっきりと俺に言ったわけではないけど、組の人間とのやり取りが漏れ聞こえてくるというか」
「ぼくと、なんのために……?」
「そこまでは……。長嶺組長じゃなくて、佐伯さんと話したいことがあるみたいで、不思議に感じたんです」
〈あれ〉だろうかと、思い当たることはある。和彦の微妙な表情の変化に、玲は申し訳なさそうに視線を伏せる。
「自分の父親のことだけど、かなり野心家なので、気をつけてください。あと、押しが強い……。念のため佐伯さんの連絡先は、名前を変えて登録しておきます」
 名残り惜しそうに手を離し、玲は帰っていった。その後ろ姿を見送った和彦は肩から力を抜き、外の通りに目を向ける。姿を見せた玲を護るように男たちが駆け寄り、あっという間に連れ去ってしまった。
 和彦のスマートフォンには、護衛の組員からメッセージが送られてくる。玲を乗せた車がこの場を離れたというもので、大きな問題が起こらなかったことに安堵した和彦は、現金なもので途端に空腹を自覚する。
 ついでなので夕食もこの店で済ませることにした。


 嵐というより、局地的な突風に巻き込まれたような一時だったなと、精神的疲労からぐったりとしながら和彦は思う。
 なんとか無事に自宅マンションに帰り着くと、寛ぐ前に明日の仕事の準備を整える。クリニックに届いていた学会誌に目を通しておきたい気持ちもあったが、今晩はもう頭を使うのは限界だ。手早くシャワーを済ませると、ダイニングテーブルについて大きく息を吐き出す。無意識のうちにスマートフォンを手元に引き寄せ、画面を覗く。不気味なほど誰からも連絡が来ていない。
 ひとまず賢吾に報告をしておこうと、車中から簡潔にメッセージは送っておいたのだ。詳細は護衛を通じて報告されるとわかってのことだが、本宅ではどういう状況になっているか、想像するとうっすらと首筋が寒くなってくる。
 まだ十代の青年が、無謀な情熱で突っ走っただけだと話せば、賢吾は納得してくれるだろうか。仮に怒っていたとして、それを鎮めてくれるだろうか。 和彦としては、玲が無難な大学生活を送ってくれることを願っており、長嶺組が関わる事態は避けたかった。
 しかしここで大切なのは、玲が自らの立場をわきまえて行動できるかということで――。
「……怖いなー。若さって」
 そんなことを独りごちてから苦笑する。今日の玲の様子では、もう二度と和彦とは会わない、とはならないだろう。あっさりと告げられた玲の気持ちを、麻疹のようなものだと笑う気にもなれず、忘れることもできず、だからこそ和彦は困るのだ。自分が少しだけ彼を大人にしてしまったという負い目もある。
 脳裏を過るのは、いかにも食えないヤクザである伊勢崎龍造の反応だ。あちらはあちらで息子の暴走に頭を抱えているのだとしたら、さらに申し訳ない。
 所在なく座っているのも落ち着かないため、コーヒーでも淹れてこようかと腰を浮かせかけたところで、スマートフォンが鳴った。画面に表示される番号に見覚えがなくて困惑したものの、誰がかけてきているのか気にはなる。おそるおそる電話に出ていた。
『今、話しても大丈夫かい?』
 高くも低くもない落ち着いた声が耳に届く。そこからひんやりとした温度を感じ取ってしまうのは、電話の向こうにいる人物の秀麗な顔立ちが脳裏に浮かんだからだ。
「えっ……と、御堂、さん、ですよね」
『うん、そうだよ。ごめん。携帯の番号を変えたばかりだから、驚かせたよね』
 安堵していいのか緊張していいのか、さまざまな感情が胸中を駆け抜けたあと、和彦はストンとイスに座り直す。なんにしても、事情を聞くのに一番最適な相手から電話をかけてきてくれたのだ。
「いえ、それは大丈夫ですけど――、玲くんのことで、電話を?」
『申し訳ない。何もかも後手に回って、君に迷惑をかけてしまった』
 御堂に謝罪してもらうことなのだろうかと、疑問符が頭の中で飛び交う。そこで、さきほど玲が言っていたことを思い出した。
「玲くんに尾行をつけているんですよね」
 返ってきたのは御堂のため息だ。なんとも艶めかしい響きに、和彦はドキリとする。
『あの子、そんなことまで君に話したんだ』
 実は中嶋からも事前に聞いていたのだが、御堂と中嶋の間でどれほどの情報共有が行われているかわからないため、余計な説明はやめておく。
「……正直であることが、ぼくに対する誠実さの証になると思ったのかもしれませんね」
『あそこの父子は、〈オンナ〉に弱いんだよ』
 身も蓋もない言いように、和彦は返事のしようがない。御堂が言うならそうなのだろう。
『せっかくの大学生活で羽を伸ばせるかと思ったら、父親どころか、その父親の子分たちまでぞろぞろついて来たんだ。子供の頃から知っている子だから、わたしもちょっと肩入れしてしまってね。なるべく彼には関わらずに、堅気らしく自由に過ごさせてあげたかったんだけど――』
 どう相槌を打っていいものかと迷った挙句、曖昧な声を洩らす。くすっと御堂の小さな笑い声が聞こえた。
『君の身近にいる人間から聞いているんだろう? いろいろと』
「あっ……、えっと……」
 ちらりと頭に浮かんだ南郷の顔を、慌てて追い払う。
『その前提で話すけど、北辰連合会がちょっときな臭いことになって、伊勢崎組長は新規事業を始めるという建前で、こちらに避難しているようなものなんだ。当然、その動きを総和会も把握して、息を潜めて成り行きを観察している』
「観察ですか……」
『こちらが巻き込まれない限り、ご自由に、という姿勢だ。ただ、伊勢崎組長はおとなしくしているつもりはないようだけど』
 意味ありげに言葉を切られる。和彦は、小さく呻き声を洩らす。わざわざ御堂が電話をかけてきた意図を察したのだ。
「……だったらなおさら、玲くんがぼくと接触するのはまずいですよね」
『わかってるはずなんだけど、彼も。そこはもう、恋は盲目というやつかな』
「冗談になってないですよ」
『そう。冗談では済まないかもしれない。例えば、息子との火遊びの責任を取れと、今になって伊勢崎組長がねじ込んできたとき、君は要求を突っぱねることができるかい?』
 相手は海千山千の極道だよと、ぞっとするほど優しい声音で囁かれて、和彦は身を震わせる。
「要求というのは、もしかして――」
『興味深い歴史がある場所に、和泉家所有のビルがあり、そこに君という要素が加わることで、とてつもない価値を持つようになる。伊勢崎組長にとっても、その伊勢崎組長に何かしらの利害が絡んでいる人間……組織にとっても』
「ぼくは、何もできません。和泉家の内情なので詳しくは話せませんが、ぼくの一存では勝手なことはできないんです」
『それを、関係者皆に説明して回るかい?』
 この言い方は少し意地悪だなと、ふと思った。
「もしかして御堂さん、今、疲れてます?」
『……誰も彼も人の話を聞かないうえに、自分勝手な男が多くてね。頭を抱えているんだ。――すまない。君に少々八つ当たりをして、感じが悪かったね』
 気を取り直した様子で、和彦のここ最近の状況を当然のように把握している御堂は、気遣う言葉をかけてくれる。その流れで世間話程度の会話を交わしてから、そろそろ電話を切ろうかという空気となる。
「ぼくもさすがに今日は、驚きすぎて疲れました。本当に、心臓に悪い……」
『会う機会があれば、わたしから玲くんに注意しておくよ。ただまあ、聞き入れてくれるかは怪しいね。伊勢崎組長経由で叱ってもらうという手もあるけど、あてにはできない。本人が悪ガキ気質だから』
「そう、ですか……」
 龍造の話題が出たからではないが、別れ際に玲から言われたことが、いまさら恐ろしくなってくる。心当たりがないか御堂に聞いてみたいが、それはさすがに無謀すぎると自戒する。いっそのこと本人に会ってみないかと促される可能性があるためだ。
 賢吾は、御堂に全幅の信頼を置いているわけではなく、南郷は、露骨に御堂を警戒している。男たちにそうさせるだけのものが御堂にあるのだ。
 気にかけてくれたことに対して礼を言って電話を終えると、和彦はぐったりとしてだらしなくテーブルに突っ伏す。さすがに今夜はこれ以上誰かと話せる気力もなくなり、申し訳ないがスマートフォンの電源を切っておくことにする。
 突っ伏したまま手を伸ばしかけたところで、再びスマートフォンが鳴った。反射的に顔を上げた和彦は、画面を覗き込んで、うっ、と声を洩らす。画面に表示されていたのは、賢吾の名だった。




 土曜日の午前中に姿を見せた賢吾は、いつになく色艶がよかった。血色がいいといえばそうなのだが、しっとりとした艶をまとっているようで、男前ぶりが普段より二割ほど増して見える。珍しいことに白の薄手のニットを着ており、車内にあってもハッとするほど鮮烈に目に映る。
 ずいぶん寛いだ姿に瞬きを繰り返す和彦に、後部座席のシートにゆったりと身を預けた賢吾が軽く手招きをしてくる。
「早く乗れ」
 ぎくしゃくとぎこちない動きで指示に従うと、和彦がシートベルトを締めるのを待って静かに車は発進する。
 和彦は背筋を伸ばしたまま、隣の賢吾をうかがう。特に不機嫌なようには見えないが、土曜日の午前中から連れ出された理由は一つしかないため、嫌でも緊張する。すると賢吾が、口元に笑みを浮かべた。
「別に、お前を取って食いやしない。そう怖がるな。それとも――何か心当たりがあるのか?」
「……性格悪いって言われないか」
 玲と会ったあと、御堂に続いて電話をかけてきた賢吾に、有無を言わせず土日の予定を押さえられた。おかげで今日まで胃が痛くて仕方なかったが、自業自得だという自覚はあるため文句はない。
 いよいよ折檻でもされるのではないかと、最悪な想像をした和彦はそっと身を震わせる。追い打ちをかけるように賢吾が言った。
「お前とじっくり話すために、土日は仕事の予定を入れてない」
「二日も必要なのか? 忙しいんだろ」
「俺のオンナに関することだ。いくらでも融通は利かせる。張り切りすぎて、朝からサウナに行ってきたぐらいだ」
 だから色艶がいいのかと納得したと同時に、嫌でも和彦は覚悟を決める。
「それで、今からどこに……」
「ひとまず美術館に行くか。せっかくだから俺ものんびりしたい」
 ご自由にと答えて、ようやく和彦はシートにもたれかかる。すると、あくまでさりげなく賢吾が切り出してきた。
「――久しぶりに伊勢崎玲と会った感想はどうだ」
 鼓動が一回だけ大きく跳ねたが、動揺は表に出さない。和彦は外を流れる景色に目を向けつつ、素っ気なく応じた。
「男子、三日会わざれば刮目せよ、らしい。本人がそう言ってた」
「……なかなかおもしろそうなガキだな」
「まじめな大学生だ。父親がヤクザの大物というだけで」
「まじめな大学生かもしれないが、頭のネジが何本かはぶっ飛んでるだろ。『ヤクザの大物』の一人である俺のオンナに会うために、クリニックに単身乗り込んでくるんだから。ヤクザとしての素質は十分だ」
「いや、あの子は――」
 ヤクザにはならないと言おうとしたが、本当にそうなのだろうかと思い直す。
 和彦の身近には、千尋という存在がいる。初めて会ったとき、千尋は生い立ちによる闇のようなものは一切感じさせなかったし、粗暴な言動もなかった。それどころか育ちのいい青年そのものだった。だが当時、すでに千尋は自分が将来長嶺組を背負う運命を受け入れていたのだ。玲の本当の胸の内を他人には推し量ることはできないという、いい例だ。
 急に口を閉じた和彦に感じるものがあったのか、賢吾はさりげなく手を握ってきた。
「うちの犬っころを見ててもわかるだろう。可愛い子犬だと思って迂闊に手を出すと、牙を剥くことがあると。お前相手にはせいぜい甘噛みだろうが、誰に対してもそうだとは限らない。何か感じたんじゃないか。お前は力を持つ男には敏感だ」
「よく、わからない……」
 あからさまに答えを避けた和彦を賢吾は責めなかった。
 とっくに把握しているだろうが一応話しておいたほうがいいかと、玲には伊勢崎組の護衛――というより世話係がついていることと、御堂による第一遊撃隊の監視がついていることも報告したが、賢吾は特に表情は変えなかった。ただ、龍造が和彦に会いたがっていたという件では、何事か考えるようにあごに手をやる。
「お前の存在がお守り代わりになると本気で考えるほど、楽天的な男ではないと思うが。少なくとも、お前を怖がらせたという点で、俺の、伊勢崎父子に対する印象はなかなか最悪だ」
「直接脅されたわけじゃないんだけど……」
「お前は、自分の立場というものをもう一度じっくりと噛み締めるべきだな」
 それに、と賢吾は続ける。
「無自覚に怖い男を骨抜きにする、自分の性質の悪さを」
「なっ……、に、言って……」
 ふん、と軽く鼻を鳴らした賢吾は、ここでやっと少しだけ不機嫌な横顔を見せる。それでいて、手は握ったままなのだ。
「今日は、美術館に行ったあと、昼メシを食ってから少しぶらついて、ぜひともお前を連れて行きたい場所がある。今日は、そこで泊まりだ」
「どこに?」
「ここでバラしたらつまらねーだろ。せっかく俺が趣向を凝らしたんだ。――お前を楽しませるために」
 魅力的なバリトンが、吐息のような囁きによって一層威力を増す。しかし和彦が感じたのは寒気で、反射的に手を抜き取ろうとしたが、ぐっと力が込められ叶わない。
 やはり賢吾は、玲と再会してしまったことを怒っているのだと、さすがに察した。執着心の強いこの男が、素知らぬ顔をするはずがなかったのだ。そもそも、玲との再会以前に、和彦は南郷とも共に時間を過ごした。あのときも、賢吾の反応は穏当ともいえるものだったが、内心ではどう感じていたのか和彦にはうかがい知れない。
 如何なる目に遭うにしても覚悟を決めるしかないと、和彦はぐっと唇を引き結んだ。


 どんな無茶で振り回されるのかと、最初は全身を強張らせて緊張していた和彦だが、その状態は長くは続かなかった。
 提案通りに、前回とは別の美術館に連れて行かれたのだ。
 今回は、江戸時代に活躍したという絵師の展覧会で、和彦は寡聞にして名を知らない。ただ、思いのほか作風が現代に近いものを感じ、愛らしく描かれた動物たちの絵画に見入っていた。肉づきのいいころころとした子犬の姿に目を細めていると、隣に賢吾が立つ。さすがに人目がある場所ではジャケットを羽織っているが、今日は陽気がいい。さきほどまで首筋の汗をハンカチで拭っていた。
 和彦と同じ絵をじっと見つめてから、ぼそりと賢吾が言う。
「この無邪気な子犬の姿、どこかの誰かを思い出すな」
「……無邪気ではないだろう、千尋は」
「誰も千尋とは言ってない。稜人のことを言ったんだ」
 ぼくはまだ会ったことがないと、他の鑑賞者たちに気づかれないよう、和彦は賢吾の脇腹を小突く。
 やけに愛嬌のある虎の屏風絵を前にして、知らず知らず口元を緩めていると、今度は耳元で囁かれた。
「お前と一緒にいるときの、どこかの若頭補佐みたいだな」
「蛇の絵はないのか。絶対、可愛い顔をしてるはずだ」
「どうだろうな。気になるなら、図録を買ってやる」
 そんな会話を交わしながら展示を見て歩き、帰りには約束通り豪華な図録も買ってもらう。しかしすぐにひょいっと賢吾に取り上げられ、いつの間にか側に来ていた組員に手渡した。
 この美術館に若い頃から足を運んでいたという賢吾は、近辺の地理も詳しいらしく、車には乗らずに和彦を伴って歩き出す。事前に予定は聞いていたのだろう。組員たちは慌てることなく護衛につく。
「ちょっと軽率すぎるんじゃないか。堂々と通りを歩くなんて」
「ほお、お前からその言葉を聞くとはな」
 ニヤリとする賢吾の軽い皮肉に、残念ながら和彦は反論できない。
 向かったのは、古めかしい外観の小さな定食屋だった。昼休みの時間帯前とはいえ、中に入ると席は埋まりかけている。かろうじて二人掛けのテーブル席につくことができ、注文は賢吾に任せる。慣れた様子から、かつてこの店に通っていたのだろうと推測できたからだ。
「――俺が通ってた頃は、年寄り夫婦が切り盛りしてたんだが、さすがに代替わりしたようだな」
 座っている場所から見える厨房では、中年の男女が忙しく立ち働いている。
「通ってた?」
「ああ。本宅でメシを食うのが煩わしい年頃でな。そもそも、たまに銃弾が撃ち込まれたり、トラックが門に突っ込んだりして、何かとにぎやかな頃だった」
「それ……、にぎやかで済む話じゃないだろ」
「オヤジの代の頃は、しょっちゅう本宅は改築してたな。その結果、今のような造りだ。門から玄関までが少し離れていて、建物の中もちょっとわかりにくい構造になった」
 活気があるというより緊張感に満ちた毎日だったようだが、話す賢吾はどこか楽しげだ。和彦も、過去の組や本宅の様子を聞けるのは新鮮で、食事時に交わすにはどうかと思うが、少なくとも会話は弾んだ。
 仲良く焼きサバ定食を食べ終えて店を出ると、すでに目の前には車が停まっており、流れるように乗り込む。次はどこに向かうのかと思えば、大型書店だった。画集でも欲しいのだろうかと思ったが、賢吾は一階の雑誌売り場で週刊誌を何冊か手に取る。
「時間潰しにいいかと思ってな。お前も、欲しい本を持ってこい」
 賢吾が一緒なら、のんびりと他の階を見て回るわけにもいかない。新刊が並ぶ台で文庫本を数冊選ぶと、賢吾に渡してまとめて支払ってもらう。書店を出るとさらに車で移動して、次はスーパーだ。賢吾はカートを押しながら、カゴに次々とアルコール類や水、手軽に食べられる冷凍食品やつまみになりそうな乾物などを放り込んでいく。つられて和彦もちょこちょこと商品を入れていくが、そもそもなんのためにこうして買い物をしているのかがわからない。
 これからキャンプにでも行くのかと、危うく口にしかけたくらいだ。
 買い物を終えて駐車場に戻ると、さきほどまで乗車していたのとは別の車に乗り換えて、再び移動。街中をぐるぐると走行してからの、尾行を警戒したようにスピードの緩急をつけた運転に切り替わり、目的地が近いことは薄々察していた。
 移動距離のわりに、意外なことに本宅からさほど離れているわけではない。せいぜい車で十分から十五分といったところだ。
 このまま本宅に向かう――わけではないようだった。
 さすがに訝しみながら和彦が視線を向けると、賢吾は口元に薄い笑みを浮かべていた。ゾッとするものを感じ、和彦の肌が粟立つ。
「どこに――」
「お前に仕置きをするのに、ちょうどいい場所だ」
 数秒間、何を言われたのか和彦は理解できなかった。ただ、賢吾がどういう男なのかじわじわと思い出し、ああ、と声を洩らす。身の内に大蛇を棲まわせる男は、ひどく執念深くて、何より嫉妬深い。だから静かに怒りを保ち続けたまま、今日こうして和彦を連れ出した。
 南郷に続いて玲と会ったと知ったとき、賢吾の胸に渦巻いた感情を想像して、よくぞ今日まで堪えたと言うべきなのかもしれない。
 恐ろしいという気持ちは確かにある。しかしそれを上回って湧き起こるのは、こんな男に強く執着されているという、安堵と悦びだった。


 どんなおどろおどろしい場所に連れて行かれるのかと身構えていた和彦だが、目の前に建っているのはごく普通のマンションだった。いわゆる低層マンションというもので、三階建てだ。外観は小洒落たデザインで、よく手入れされた樹木が、エントランスの出入口の両サイドを彩っている。
「入るぞ」
 さっさとオートロックの操作パネルを押した賢吾が、そう言ってエントランスの扉を潜る。荷物持ちの組員と、護衛担当の組員たちと一緒に乗り込んだエレベーターは三階まで上がる。
 エレベーターから一番遠い部屋のドアをさっさと賢吾が開ける。部屋に最初に入ったのは荷物持ちの組員で、買い込んだものを手早く室内に置くと、速やかに出てきた。賢吾に腕を掴まれた和彦は玄関に押し込まれ、先に中で待っているよう言われる。どうやら共用通路で何か打ち合わせたいらしい。
 和彦は仕方なく部屋に上がる。至って普通の2DKのようで、自分以外に人がいないことを確認するため、部屋のあちこちを遠慮しつつ覗いて回る。すぐに違和感を覚えて首を傾げる。一通りの家具や電化製品が揃っていながら、生活感が乏しいのだ。
 二つある部屋はどちらも、ベッドとサイドテーブルに小さなワードローブが置かれている。どこかで見たことがある光景だなと思ったら、ビジネスホテルの一室だ。余計なものがない。
 観察し甲斐のない部屋から目を逸らし、買ってきたものをとりあえず仕舞おうと冷蔵庫の冷凍室を覗く。袋入りの氷しかなかった。まさかと思って次に開けた冷蔵室も、水のボトルしかない。日常的に使っていないのは一目瞭然だ。おそらく今日はこの部屋に宿泊するはずだが、一体どういう場所なのかまったく予想がつかない。
 手早く作業を終えても賢吾が部屋に入ってくる様子はない。室内が少し暑いと感じた和彦は、通りに面した窓を開ける。ベランダに出てみたかったが、履き物が置いてない。それでも外の景色を眺めることはでき、つい本宅がある方向を身を乗り出して見てみる。
 住宅街の一角に建つ、特別なものなど何もないマンションだ。その周辺も同じで、ありふれた光景が広がっている。正直、本宅の周辺一帯は組員たちが目を光らせていることもあってある意味安全ではあるが、独特の緊迫感のようなものが絶えずうっすらと漂っているのだ。しかしこの辺りまで来るとその影響は皆無だと、和彦は肌で感じる。
「――難しい顔で見回しても、変わったものはないぞ」
 いつの間にか部屋に入ってきた賢吾が背後から話しかけてくる。揶揄するような声の響きに、なんとなく不穏さを嗅ぎ取る。
 和彦が振り返ると、すでに賢吾はジャケットを脱いでいた。組員の気配はなく、二人きりとなったようだ。
「危ないかもしれないから、一応窓を閉めておけ」
 言われた通りにすると、賢吾はさっさとリモコンを見つけ出してきてエアコンを入れる。さらにはキッチンの戸棚から電気ポットを取り出して湯を沸かし始める。カップを手にして、こちらを見た。
「コーヒーとお茶、どっちがいい?」
「ぼくがやるけど……」
「何がどこにあるかわからねーだろ。座ってろ。お茶でいいな」
 確かにその通りなので、リビングダイニングに素っ気なく置かれた折り畳みテーブルにつく。必要なものは揃っているが、あくまで必要最低限で、飾り気はない。カーペットはまだ新しいようで、無意識にてのひらを這わせていた。
 それより賢吾だ。迷いなく食器棚の引き戸を開けて緑茶のティーバッグを取り出すと、ぽんぽんと二つのカップに放り込む。何がどこに置いてあるか完璧に把握している様子から、この部屋に初めて訪れたということはないだろう。
「ここは――」
「本宅に近いから、ときどき客を泊めるのに使っている。長嶺の家も、親戚皆が皆、ヤクザ稼業じゃねーからな。そんな人間をあの本宅に泊めるのは気の毒だ。そういうときは俺が接待役をしている。他に、訳ありを匿うこともある。なかなか使い勝手がいいんだ、ここは」
「……それであんた手ずから、お茶を入れたりするわけだ」
「特別な相手にだけだぞ」
 今の状況でそんなことを言われても、自尊心はくすぐられない。むしろ、賢吾のサービス過多ぶりを和彦は警戒していた。『仕置きをする』とまで言われているのだ。このままお茶を飲んで終わりとはならないだろう。
 カップをテーブルに置き、賢吾が正面であぐらをかいたうえで、膝の上に肘をつく。舐めるように見つめられて、和彦はあっという間に息苦しさを覚え、逃れるように視線をさまよわせていた。
「――厄介なものだな。怒りのままにお前を怒鳴りつけて、なんなら頬を二、三発張るぐらいしたいと思うのに、こうしてお前が目の前にいると、一気にそんな気が萎える。〈これ〉は、大事に可愛がるものだと、頭じゃ俺もわかっているんだ」
 突然語り始めた賢吾に、和彦は目を丸くしたものの黙って聞き入る。
「お前の淫奔な性質ごと受け止めているし、それを利用もしている俺にも、地雷……というべきか、喉に刺さった魚の骨のような存在があることに気づいた。南郷は気に食わない男だが、それでも同業だ。オヤジの側で息をして、オヤジのために尽くしている。どうしたって通じるものがあるんだ」
 気に食わない男だが、と念入りに再度賢吾が付け加える。和彦は、南郷が賢吾に対して抱えた、思慕というにはあまりに屈折してドロドロとした感情を思わずにはいられなかった。賢吾がこんなふうに言っていたと知れば、南郷は喜ぶだろうか。
「だがな、伊勢崎玲はダメだ。お前と関係を持つ他の男たちとは、匂いが違う。いや、違うな。お前と匂いが近いんだ」
「匂い……」
「堅気としてまっとうできれいな精神を持ち合わせてるが、周りをヤクザに囲まれてる。そういう特殊な環境で生きてる人間特有の匂い。――俺が逆立ちしても持ち得ないものだ」
 忌々しげに軽く鼻を鳴らして、賢吾は自分が入れたお茶を一口啜る。つられて和彦も口を湿らせる。緊張で口腔に強い乾きがあった。
「お前が最初に伊勢崎玲と関係を持ったことは、遊びとしてやり過ごすことができた。秋滋が側にいて、煽られたせいもあるだろうしな。それが、向こうは上京した途端に、お前の周りをちょろちょろし始めた。高校を出たばかりにしては度胸がありすぎる。それとも、父親がお膳立てをしてやってるのか? ……と、あれこれ思索する自分にムカつく。たった一人の、高校出たてのガキに煩わされているということだ」
 わざとなのかずいぶん言葉が明け透けだ。
「……ぼくは、玲くんとは――」
「ああ、やめろ、やめろ。お前の気持ちは聞きたくない。俺が、ダメだと言ってるんだ」
 賢吾の語気が荒くなる。テーブルの上に置かれた手が硬く握られ、血管が浮いている様を見ると、ギリギリのところで感情を抑制しているのだとわかる。和彦の周囲に玲の影がちらつくようになってから、賢吾はずっと堪えていたのかもしれない。
 賢吾が玲に対して抱く忌避感を共有できればいいのだが、和彦が玲に抱くのは、親はともかく本人はまっとうな大学生である彼が自分などとこれ以上関わってはいけないという、庇護欲に近い感情だ。きっと立場の違い故に、見えているものが違うのだ。
 和彦の戸惑いを見透かしたように、賢吾は皮肉っぽく唇を歪めて言った。
「臆病で慎重な蛇の勘だ。――伊勢崎玲に関わるな」
 ここまで言われて、頷くしかない。しかし、今回のように玲から接触を持とうとしたとき、和彦には手の打ちようがない。困惑がありありと表情に出ていたのか、賢吾は険しく眉をひそめたあと、大きくため息をついた。
「父親のほうに話をつけに行くか? お宅の息子を、うちのオンナに近づけるなと。俺はかまわねーぜ。……秋滋を通して、それとなく警告はしておいたんだが、通じていないのか、あえて秋滋が何も言っていないのか――。まあ、もうどうでもいい」
 ふいに沈黙が訪れる。向き合ったまま二人はお茶を啜っていたが、間が持たない和彦は改めて室内を見回していた。ここがどういう部屋なのかさきほど教えられたが、なぜわざわざ和彦を連れて来る必要があったのか、その理由はまだ教えてもらっていない。
「……どうしてこの部屋なのか、気になるか?」
「それは……、もちろん」
 仕置きをするのにちょうどいい場所と言われて、気にならないはずがない。
 カップを脇にやり、賢吾が威圧するように半身を乗り出す。
「お前に少しぐらい、俺の気持ちを味わってもらおうと思ったんだ」
「気持ち?」
「吐き気がするほどの嫉妬、というものだ」
 そう言われた瞬間、ゾワリと悪寒が走った。反射的に座ったまま後退っていたが、賢吾がいきなり折り畳みテーブルを乱暴に脇にどけ、獣のような動きで和彦に襲いかかってきた。
「うっ」
 カーペットの上に仰向けのまま倒れ込んだが、寸前のところで大きな手に後頭部を庇われたため、衝撃はなかった。だが、安心する間もなく今度は喉元に手がかかる。和彦は圧迫感に息を詰めながら、顔を強張らせて賢吾を見上げる。ゾッとするほど冷ややかな表情をしていた。
「この部屋はもともと組の所有だが、八年近く前までは、ある人間を住まわせていた。千尋の母親――俺の元嫁だ」
 まるで毒のように注ぎ込まれた言葉がじわじわと神経に浸み込んでいく。自分が激しく動揺しているのだとわかった。だが、賢吾の離婚歴など当然把握していながら、いまさら動揺する理由を、和彦は自分の中で探す。
「オヤジととことん気が合わない女でな、結婚生活はこの部屋で送っていたんだ。おかげで俺は、ここと本宅を行き来する生活だった」
「……結婚、生活……」
「愛の巣、ってやつだ」
 皮肉げな口調から、かつては甘い生活を送っていたという素振りはうかがえないが、それでも、和彦の胸を苦しくする威力は十分あった。
 基本的に和彦は、賢吾の女性関係は特に詮索してこなかった。口出しできる権利はないと思っているからだ。性質のよくない好奇心を持っていると自認している和彦だが、無意識のうちにその好奇心をシャットアウトできていたようだ。何かあっても見て見ぬふりを貫くつもりではあったが、賢吾のほうも気をつかっているのか、深い仲の女性と鉢合わせだとか、痕跡を匂わせられるという状況にはなっていない。だから、意識せずに済んでいたというのもある。
 賢吾の立場を考えれば、和彦以外の誰かと肉体関係を持たないというのは無理があるのだ。しかも本人は、いまだ男盛りと言っても過言ではない容色と体躯の持ち主で、まとう危険な香りすら魅力的に感じる女性はいるはずだ。
 どうして、と和彦は心の中で自問を繰り返していた。賢吾ともっとも深い仲であったはずの女性の存在を、今この瞬間まで意識してこなかったのか。千尋の口から〈母親〉として語られたことはあったが、そのときも心に留め置くこともなかった。あまりに本宅に微塵も気配が残っていなかったからだ。
「どうして――」
 とうとう声に出して呟いてしまうが、実のところ和彦には、自分が何を言おうとしているのかわかっていなかった。賢吾は勝手に解釈したのか、和彦の喉元に手をかけたまま続ける。
「離婚したあとも、しばらくは住まわせていた。千尋がまだ母親を恋しがる歳だったしな。本宅から近いここは、使い勝手がよかった」
 強張ったままの和彦の顔を見下ろし、何を思ったか賢吾は一気に話し始めた。
「お前には、俺の結婚と離婚について詳しく話したことはなかったな。大しておもしろくもないからだが、こうなってみると、いい判断だったかもな。……離婚の原因そのものは、よくある話だ。俺がオヤジを――というより、組を捨てられないことに苛立って、失望したんだ。しっかりして気の強い女だったが、反面、こうと決めたら引かないところがあった。組の跡目のヤクザと結婚しておきながら、自分ならヤクザをやめさせられると本気で信じていたんだからな。そこが可愛い一面ではあったが、現実と折り合いをつけられなかった。とことん〈女〉ではあったが、〈女〉でありすぎた。組を背負う男の伴侶として、覚悟が足りなさ過ぎた。一方の俺も、経験の乏しい若造だったからこそ、ずっとまっとうな世界で生きてきた女ができる覚悟を、高望みしすぎた。責めるつもりはない。千尋を産んでくれたし、一度は惚れた女だからな」
 賢吾の口から『惚れた』という言葉は聞きたくないと、率直に和彦は思った。自分だけに囁かれるべき言葉であるなどと傲慢なことを言うつもりはないが、ただ、賢吾と知り合う以前の過去に、自分はもう関われないのだと当たり前のことを突き付けられて、ひたすらに口惜しく、悔しい。
「……もう、いい。聞きたく、ない……」
「俺の過去なんざ、興味ないか?」
「そうじゃない。でも、聞きたくない」
「ダメだ」
 賢吾に今度はあごを掴まれ、ぐっと顔を覗き込まれる。語られたのは、本宅とこの部屋を行き来しながらの、賢吾の結婚生活についてだった。
 当時の賢吾たち夫婦にとって、守光はある種の障害物であり、敵でもあったというが、それでも賢吾にとっては切っても切れない存在だ。父親であるということと同等に、代々続く家業の要というのはそれぐらい重いのだ。賢吾には骨身に染みた事実であっても、外の人間である賢吾の元妻には理解できない世界だ。結婚して、千尋が誕生しても、その認識のズレは縮むどころかさらに広がっていった。
 賢吾が室内を軽く見回す。
「今でこそ殺風景だが、前はそれなりに温かみのある部屋だったんだぜ。一応、家族団らんの場所だったからな」
「……聞きたくない」
「千尋は本宅で暮らしていたから、俺がここに連れて来ることになっていたが、ときどき、俺だけが来て――」
「聞きたくないっ」
「聞かなくても察することはできるだろう。なんといっても夫婦だったんだ。生活は歪だったが、関係はそう悪くはなかった。それでも別れたのは、相手が求めるものに、俺は応えられないと確信できたからだ。……けっこうきついものだぞ。ひたすら求められ続けるのは」
 自分だけのものでいてほしい。誰も求めないでほしい。一生傍らにいてほしい。
 賢吾の元妻は、どんなことをせがんだのだろうかと考えずにはいられない。賢吾と夫婦であったからこそ遠慮もてらいもなく口にできたはずだ。それに対して賢吾は、どんな眼差しを向け、どんな口調で応えていたのか――。
 和彦の記憶にある、賢吾のもっとも穏やかな眼差しと、甘い声音が蘇り、一気に全身の血が逆流するようだった。
 これは、自分にとっての〈地雷〉なのだと、本能で確信した。ここまで賢吾が、和彦以外の誰かと親密な仲にあると、もしくはあったと語ってこなかったからこそ、この〈地雷〉は心の柔い部分を直撃してきた。
 あごにかかった賢吾の手を咄嗟に振り払い、和彦は顔を横に向ける。ぐっと込み上げてくるものがあり、片手で口元を覆っていた。最初は冷静に見下ろしていた賢吾だが、和彦が苦しげにえずき始めると、引っ張り起され、手荒く背をさすられる。
「水を持ってくるか?」
 そう問われて首を横に振る。お茶が、と言いながら折り畳みテーブルに目を向けると、コップが倒れてお茶はこぼれ出ていた。もったいないと惜しんだところで再びえずく。かろうじて食べたものは吐かなかったが、口から溢れ出た唾液を手の甲で拭っていると、いつの間にか間近から賢吾に顔を覗き込まれた。無遠慮な好奇心剥き出しの眼差しは、どことなく千尋を思わせる。
「……なんだ」
 掠れ声で和彦が問いかけると、賢吾はふっと口元を緩めた。
「吐き気がするほどとは言ったが、本当に吐こうとするとは思わなかった」
 唾液で濡れた和彦の唇やあごを、ためらうことなく賢吾が大きなてのひらでぐいぐい拭ってくる。そんなことしなくていいと顔を背けようとしたが、逃れられなかった。
「俺の話を聞いて、お前が顔色も変えなかったら、縛り上げて刺青を彫ってやろうと本気で考えてた。お前は俺のものだと、他の男に示すために。もちろん彫るのは、俺の名前だ」
 賢吾の案を茶化す雰囲気ではなかった。和彦は短く息を吐き出す。
「――……自分でも、どうかしてると思う。あんたは四十半ばも過ぎた男で、結婚も離婚も経験してると当然知ってたのに、なんでこんなに動揺したのか。あんたは、ぼくという人間をよく把握してるよ。この部屋に連れて来られて、話を聞いて、生々しく想像できたんだ。誰かと家庭を築いていた長嶺賢吾が、ここにいたんだって」
「妬いた、な?」
「当たり前だ。ぼくをなんだと思ってるんだ」
「さんざん男を誑し込むくせに、男心をわかってない〈オンナ〉」
 ひどい言われようだ。和彦は少しだけ顔をしかめたが、かまわず賢吾に両てのひらで頬を挟まれた。顔を背けようがないため、視線だけを逸らす。
 みっともない姿を見られたと、強い羞恥がじわじわと身の内から湧き起こる。感情的になるのは好きではないが、賢吾は、和彦のその感情的な部分を見たいのだ。嫉妬した姿を見たいとは、つまりそういうことだ。
「……満足したか?」
「吐いてくれてたら、もっとよかったな」
 和彦は容赦なく賢吾の脇腹を拳で殴りつける。一瞬、本気で腹が立った。怒らせついでだと思ったのか、賢吾はさらにこんなことを言う。
「刺青については、本気で考えねーか? 時間はある。ここに彫り師を呼んですぐに――」
「ぼくが頷くはずがないとわかって言ってるだろ」
「それでも言いたくなるのが、男心だ」
 急に艶を帯びたバリトンの響きに、耳の奥がくすぐったくなる。和彦が首を竦めると、唇に指が這わされ、やや強引に二本の指に唇を割り開かれた。上あごの裏を擦りあげながら、さらに奥へと指が押し込まれる。長い指に口腔をまさぐられ、舌を押さえつけられ、さすがに苦しさから手を押し退けようとする。見下ろしてくる賢吾の目に宿るのは、情欲の種火だった。
 ゾクリと背筋に駆け抜けるものがあり、和彦は手足をばたつかせてもがくが、反対に賢吾は指の根本まで呑み込ませようとしてくる。さきほどの比ではない激しさでえずき、息を詰まらせる。涙目で睨みつけた先で、明らかに賢吾は興奮していた。
「あんた、こんな嗜好があったのかっ……」
 ようやく指が引き抜かれて、咳き込んだあとに和彦が非難の声を上げると、悪びれる様子もなく、ぬけぬけと賢吾が言い放った。
「いままではなかったから、きっとお前のせいだな」
「人のせいにっ――」
「それとも、この部屋のせいか」
 再び口腔に指を押し込まれて、抗議の声は消える。代わって、和彦のくぐもった呻き声と嗚咽が部屋に響く。口から溢れ出る唾液で顔の下半分がドロドロになっても、それでも賢吾はやめない。
 生理的な反応から涙まで出てきたが、その頃には困惑を上回る怒りから、賢吾を睨みつける。今の賢吾から感じるのは、明確な支配欲だった。それが嫉妬によって誘発されたものにせよ、甘受できるものではない。込み上げてきたものでいよいよ窒息しかけたところで、ようやく解放されると、和彦はカーペットに顔を伏せて激しく咳き込む。今この瞬間の賢吾なら、力加減を間違えて自分を殺しかねないと、本能的な危機感を抱いていた。
 和彦は肘をつき這うようにして離れようとしたが、易々と腰を掴まれ引き戻され、ついでとばかりにベルトを緩められる。
「賢吾っ」
 有無を言わせずパンツと下着を引き下ろされ、奪い取られてから、荒々しく尻の肉を掴まれる。いつになく乱暴な行動に、往生際悪く足をばたつかせて抵抗を試みていた和彦だが、背にどっかりと乗りかかられて息が止まりそうになる。あとはもう、悔しいがなし崩しだ。
「うくっ」
 尻の間に指が這わされたかと思うと、内奥に指がねじ込まれる。唾液で湿らせる程度の配慮はあるようだが、雑に蠢かされてすぐに指の数が増やされる。指の腹で強く襞と粘膜を擦り上げられて、痛みに声を洩らす。
 好き勝手に動く指に肉を押し広げられ、解される。自分ではどうしようもできない反応として、内奥がひくつき、賢吾の指を締め付ける。その感触を楽しむように、指が出し入れされると、たまらず和彦は腰を揺らしていた。もしかすると甘い呻き声も出ていたかもしれない。
 いつもより性急で手荒な前戯のあと、腰を抱え上げられて挑まれる。さすがにきつくて、和彦は前に逃れようとしたが、そんな抵抗すら楽しむように賢吾に尻を打たれた。
 じっくりと時間をかけて結合を深くしていく。和彦は浅い呼吸を繰り返し、なるべく下腹部に力を入れないよう気をつかう。ここまでくれば、もう賢吾の下から抜け出すのは不可能だと諦めがついた。
 ぐうっと内奥を押し広げてくる熱の塊に、感じた痛みが焼かれていく。魔が差したようにふっと脳裏を過ったのは、賢吾はこの部屋で、元妻を抱いている姿だ。あくまで想像でしかないが、それでも生々しさを伴っており、口腔に指を突っ込まれた余韻もあって和彦はまたえずいてしまった。
「……苦しいか?」
 強引な行為に及んでいる最中でありながら、賢吾がそう気遣ってくる。だが、やめるつもりはないようで、容赦なく内奥の奥深くに押し入ってくる。色っぽいやり取りがあったわけでもないのに、賢吾のものは興奮しきっており、力強く脈打っていた。
 間欠的に声を上げてから身じろぐと、和彦が逃げようとしていると思ったのか、腰を掴む指に力が加わる。賢吾のものを根本まで受け入れさせられ、腹の中を掻き回す勢いで動かれる。腰を揺さぶられるたびに鈍い痛みが下腹部に広がるが、悲鳴を上げるほどではない。和彦はただ眉をひそめて耐えていた。すぐに自分の体に訪れる変化を知っているからだ。
 ゆっくりと痛みが溶けていくのを感じた。新たに生まれたのは、ゾクリと身震いしたくなるような疼きだ。上擦った声が鼻から洩れると、賢吾は丹念に内奥を擦り上げるように動きを変える。
 おそらく、と和彦は考える。この部屋で、行為に及ぶことが賢吾にとっては大事なのだ。ふいに後頭部を手荒く撫でられた。
「――余裕だな。この状況で考え事か」
 揶揄するような口調に煽られたりはしない。和彦は荒く息を吐き出してから、顔を動かし、なんとか視線だけを背後に向けた。賢吾の顔を捉えることはできなかったが、目の動きは伝わったはずだ。
「この部屋は、あんたにとって特別な場所、なんだな……」
「さっきも言ったが、一家団欒の――」
 そういうことではないと、和彦は緩く首を横に振る。賢吾は一旦動きを止めてから、何か思案している気配を漂わせる。そっちこそ余裕ではないかと思ったが、口から出たのは違う言葉だ。
「あんたは、そんな男じゃないだろ」
「……聞きようによっては、俺にケンカを売ってるような言葉だな」
「そんなつもりはない……。特別な場所なんだとは思う、けど、それだけじゃない気がする。大事にしたい思い出の場所にしては、今のこの部屋は、まるでビジネスホテルの一室みたいだ」
 最初は、賢吾にとっての聖域のようなものかと思ったのだ。しかし、賢吾が口にした『愛の巣』や『一家団欒』を匂わせるものは、この部屋には残っていない。留める努力すら、していないようだった。
 この体勢では会話がしにくいとばかりに、いきなり内奥から熱いものが引き抜かれる。ぶるっと体を震わせた和彦は荷物のように素っ気なくひっくり返され、仰向けとなる。欲情と冷静さが混じり合った目で、賢吾が見下ろしてきた。
「お前に察してもらいたいような、そうでないような、複雑な気持ちだ。――それだけの仲になったということだろうな」
 唇を塞がれそうになり、反射的に顔を背ける。機嫌を損ねたように賢吾が獣じみた唸り声を洩らしたので、慌てて言い訳する。
「ついさっき、吐きかけたんだ。せめて口を濯がせてくれっ……」
 必要ないとばかりに賢吾に唇を塞がれる。和彦は抵抗したが、体全体を使って押さえ込まれては諦めるしかない。呼吸すら奪おうとするかのような深い口づけを与えられ、めまいがしてきた。
 ようやく唇が離されて息を喘がせていると、なぜか賢吾は決まり悪そうな顔をしていた。どことなく悪ガキ味も感じ、目を丸くしてまじまじと見入っていると、手荒く前髪を掻き乱される。
「――……正直に言うと、この部屋は、俺の遅い反抗期の証だ」
 思いがけない言葉が賢吾の口から出て、和彦は聞き間違いだろうかと首を傾げていた。するとまた前髪を掻き乱される。聞き間違いではなかったようだ。
「本宅で生きてきた俺が、毎週一日、二日過ごすだけとはいえ外に住処を持つってのは、けっこう大変だったんだぜ。それでもこの部屋で暮らすのにこだわったのは、意地だ。組所有だったものを買い取って、俺のものにした」
「それが、反抗期?」
「何もかもあんたの思い通りにはさせないと、オヤジへの当てこすりだな。今に至って言いたいことが言えるようになったのは、それがきっかけだろうな」
 話しながら賢吾が身じろぎ、片足を抱えられてすぐに、ひくついている内奥の入り口に欲望を押し当てられる。止める間もなく一息に奥深くまで貫かれて、和彦は逞しい体の下でのたうつ。不意打ちもいいところだが、体への刺激と、会話の内容が気になり、結局受け入れるしかない。
「うっ、うぅっ……」
 ぐっと腰を突き上げて、賢吾が目を細める。思い出したように白のニットを脱ぎ捨てたが、途端に和彦は、むせるような雄の匂いに当てられる。無意識に喉を鳴らすと、ボタンを引き千切る勢いでシャツの前を開かれ、荒々しく胸をまさぐられる。
「あっ……ん、んっ、んあっ」
 首筋に唇を這わされ、べろりと舐め上げられる。ゾクゾクするような愉悦を覚えながら和彦は、内奥で蠢く熱い肉を締め付けていた。
 少しの間、二人は夢中で行為に耽る。和彦は賢吾の背に両腕を回してすがりつき、賢吾のほうも和彦の頭をしっかり引き寄せる。逞しい腰に両足を絡めると、力強い律動が繰り返される。突き上げられるたびに大きく腰が弾み、肉同士が擦れ合う湿った音が室内に響く。
 中からの刺激ですっかり反り返った和彦のものが、もどかしく賢吾の下腹部に擦り上げられる。一旦動きを止めた賢吾が、和彦のものを掴んで扱く。
「うっ、あ……うぅ……」
 濡れた先端を爪の先で弄られて腰が跳ねそうになる。涙ぐんだ目で見上げていると、賢吾の舌先に涙を掬い取られた。このとき、ぐうっと腹の奥を突かれて痺れるような快感が生まれる。気づいたときには、絶頂に達していた。賢吾の手だけではなく、自身の下腹部も放った精で濡らす。
「――いいイきっぷりだな」
 鳥肌が立ちそうなほど官能的なバリトンで囁かれ、全身に甘美な震えが走る。息を喘がせる和彦の唇を、甘やかすように賢吾が啄んでくる。
 再び律動が再開され、達したばかりなのに否応なく快感の波にさらわれそうになった和彦だが、寸前のところで我に返る。申し訳ないが、ふてぶてしい大蛇が棲む背に思い切り爪を立てた。賢吾はふっと吐息のような笑い声を洩らした。
「どうした?」
「……話、続きっ……」
 一瞬、虚をつかれたような顔をした賢吾だったが、寸前までのやり取りを思い出してくれたようだ。
「大した話じゃない。この部屋を手放さないのは、自分が築いた家庭を懐かしむためとかじゃなく……、そうだな、俺が張った意地を、目に見える形で残したかったんだろうな」
 賢吾の唇が気まぐれに胸の突起に触れ、優しく吸い上げられる。舌先で転がされて控えめに声を洩らすと、緩やかに円を描くように内奥で掻き回される。和彦は愉悦に喉を鳴らして目を細めながら、賢吾の髪に指を差し込む。
「よく、わからない理屈だ……。自分のことなのに、他人事みたいな口ぶりだし」
「お前のその正直なところも、好きだぜ」
 賢吾にとっての千尋や、別れた妻、守光の存在など、深く知りたいことはいくらでもあるが、今、賢吾が語りたいのは、この部屋のことなのだろう。和彦としてはいくらでも聞いてやりたいところだが、体の反応にどうしても意識が引きずられる。
 熱っぽい吐息を洩らすと、賢吾の指にそっと唇をくすぐられた。
「伊勢崎の息子がお前に向けた青臭い感情に、張り合いたくなった。……俺もまだ青臭さを持っている男だってな」
 そう言って喉を鳴らして笑う賢吾だが、獰猛な獣の威嚇の声にも聞こえる。和彦は呆気に取られて見上げていると、唇を吸われて応じる。
 ゆっくりと内奥を突き上げられ、和彦は甘えるように賢吾にしがみつく。
「……もう、吐かせようとするのはなしだからな」
「悪かった。やっぱり大事なオンナは苦しめるより、こうして可愛がるほうがいい」
 両足をしっかりと抱え上げられてから、ぐうっと奥深くまで熱い肉を穿たれる。一気に背筋を這い上がってきた快感が頭の先まで行き渡り、和彦は掠れた声を上げる。
 乱暴に腰を揺すられ攻め立てられながら、賢吾の欲望が充溢した大きさとなったのを感じる。和彦がよく知る男の形だ。その瞬間、ズキリと胸の奥が疼いた。きつく賢吾のものを締め付けけながら、潤んだ襞と粘膜で包み込む。
「あっ、あっ。賢、吾っ――。あっ、い、いぃ……。気持ち、いっ」
 賢吾は何も言わず、ただ荒い呼吸を繰り返す。余裕なく汗が流れる顔にはすでに欠片も余裕はなく、ただ一心に和彦を貪っている。
 今は自分だけのものだ――。
 心の内でそっと呟くと、驚くほどの満足感が和彦の中に広がっていた。ほぼ同時に、賢吾が眉をひそめて低く唸る。放たれた精を体の奥で受け止めながら、和彦は恍惚とする。きつく抱きすくめてくる腕の強さが心地よくて、自分の中で脈打つものが愛しくて。
 背の大蛇を撫で回す和彦に、賢吾は物騒な愛の言葉を囁いてきた。
「ああ……、お前が可愛すぎて、このまま絞め殺したくなる。きっと気持ちいいだろうな」
 お返しとばかりに和彦も、賢吾の耳元で囁き返した。
「だったら――」
 よほど強烈だったのか、賢吾は目を見開いたあと再び興奮して、徹底的に和彦を貪り尽くしてきた。









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