瀬川(せがわ)幸太郎(こうたろう)はいたって平凡な男だ。三十四歳の現在、妻子がいて、目覚ましい出世をしているというわけではないが、そこそこ名の知れた飲料メーカーで営業をしている。妻は専業主婦で、一人息子は小学三年生。ごくごくありふれた家庭ではあるが、皆健康で、これといったトラブルも抱えておらず、十分に満たされた毎日を過ごしている。
唯一気がかりといえば、実家で一人暮らしをしている母親のことだ。父親は二年前に病であっという間に他界した。誰の目から見ても仲のいい夫婦だったため、母親の愁嘆ぶりに、幸太郎だけでなく、双子の妹たちも慰めの言葉をかけることすらためらわれたぐらいだ。
最近はようやく気持ちが持ち直したのか、習い事も再開したようだ。それでも一人暮らしということもあり、幸太郎は月に数回、会社帰りに実家に立ち寄ることにしていた。今も、これから向かうところだ。
妹たちも同じようなペースで子供を連れて実家に顔を出しているようで、皆が実家で暮らしていた頃の関係のよさが今も保てていることに、幸太郎は誇らしさにも似た気持ちを抱いていた。
亡くなった父親は、子供にはもちろん優しかったが、それ以上に母親には無限の優しさを注いでいた気がする。いつだったか、高嶺の花のお嬢さんだった母親を、自分が何度も請うて結婚してもらったのだと話していたことがある。母親は、ただニコニコとして聞いていた。否定しなかったということは、事実だったのだろう。
そんな母親は、父親とは再婚だ。最初の結婚は家の都合による政略結婚だったそうで、何があったのかずいぶん苦労したあと離婚したのだという。そういう事情があってか、どんな苦労も寄せ付けないとばかりに父親は母親を大事にした。
母親自身は最初の結婚について、幸太郎や妹たちに語ったことはない。口にしたくもないほど嫌な思い出なのか、とっくに忘れてしまったのか――。
実家近くの馴染みの和菓子屋でいくつかの饅頭を買い込む。昔に比べてずいぶん新しい住宅が増えた風景を眺めつつ、黙々と歩いていた幸太郎は、途中でふと異変に気づく。いつも空いている空き地の駐車場に、珍しく二台の車が停まっていた。黒のワンボックスカーと、黒の高級セダン。中で人影がゆらりと動くのが見え、幸太郎はすぐに目を逸らす。なんとなく不穏なものを感じた。
最近テレビで取り上げられている空き巣や強盗の存在が脳裏を過ったが、あんな目立つ車で夕方にやってくるだろうかという疑問もある。なんにしても、実家に行ったら母親に忠告しておかなければならない。
知らず知らずのうちに歩調が速くなり、見慣れた実家の格子門が見えてくる頃にはほぼ小走りとなる。
門扉に手をかけようとしたとき、実家の玄関から出てくる人影があった。ぎょっとした幸太郎は動きを止め、そのまま門扉の前から動けなくなる。
玄関から出てきたのは、四十半ばぐらいの男だった。目が合った瞬間、仰け反りそうになるほどの圧を感じる。相手の男のほうも驚いたようにわずかに目を見開いたあと、すぐに興味深そうに幸太郎のことをじっと見つめてくる。
幸太郎と同じくスーツを身につけている男だが、様になるという点では、自分は数段見劣りしていると認めざるをえない。特別高級なスーツというわけではないのになぜかと言えば、男は恐ろしく姿勢がいいのだ。
背筋が伸びている。胸を張っている。昔から、幸太郎が母親から気をつけるよう言われていることだ。気をつけていても、客前に出るとき以外ではどうしても姿勢を保てないのだ。しかし男は違う。
何より――イイ男だ。整いすぎるきらいもある容貌は酷薄そうにも見えるが、品があり、男らしい。同性の目から見ても極上だ。
こんな男が、母親が一人暮らしをしている家に一体なんの用なのか。
「あの――」
門扉を開けて幸太郎は声をかけようとしたが、男は軽く会釈をして通り過ぎる。なんとか呼び止めようとしたが、向けられた背に明確な拒絶の意思を読み取り、再び動けなくなる。
少しの間呆然と立ち尽くしてから、ハッと我に返った幸太郎は慌てて家に飛び込む。
「母さんっ」
慌ただしく靴を脱ぎ捨てて、リビングに向かう。しかし姿はなく、次はダイニングに駆け込む。母親はいた。テーブルについてぼんやりとした様子で、もらったばかりらしい花束を眺めていた。驚いたのは、母親が珍しく着物姿だということだ。
どういう状況だと困惑した幸太郎は、静かに母親に歩み寄り、もう一度呼びかける。
「母さん」
ようやく幸太郎に視線を向けた母親が、静かな笑みを浮かべる。
「どうしたの、血相変えて」
「いや……。さっき玄関の外で――。というか、なんで着物? それに、その花束……」
見事な紫の薔薇による花束だった。
「お祝いに、ってもらったのよ」
「……さっきの人? あれ誰?」
母親は困ったように笑ったあと、薔薇の花びらに触れながら答えた。
「古い知り合いの、息子さん」
「なんの用で?」
質問ばかりねと、母親が声を上げて笑う。急に気恥ずかしさを覚えた幸太郎は、自分もテーブルにつく。よくわからないが、警戒するような事態にはなっていなかったようだ。
「わたしが会いたくなって、連絡したのよ。あちらさんには何かと気にかけてもらっていたけど、ろくにお礼も言えないままだったから。そういう不義理って、突然気になってくるのよね。お父さんが死んで二年経って、ようやく落ち着いてきたというのもあるけど」
「あっ」
母親の話を聞いて思い出したことがあった。父親の葬儀のあと香典が送られてきたのだが、幸太郎や妹たち、父方の親戚たちも知らない人物からのもので困惑している中、母親は淡々と処理していた。記されていた名は確か――。
「吾川、さん? 父さんの葬式のあと、香典送ってくれてただろ。一体誰で、父さんとどんな関係なんだって、ちょっと騒動になってた」
一瞬、考える素振りを見せたあと、母親は頷く。
「こちらが呼んだんだから手ぶらで来てもらってよかったのに、こんな立派な花束を贈ってくれて」
「なんで紫の薔薇?」
また質問をしてしまった。
「わたし、今年で七十になったのよ」
「知ってる。誕生会したんだし」
「古希よ」
さらりとそう言って、母親は一旦ダイニングを出ていき、戻ってきたときには花瓶を抱えていた。キッチンに立ち、花を活ける準備を始めた母親の後ろ姿を眺めていた幸太郎は、ああ、と声を洩らした。
「そういうことか」
妻が、母親に上品な紫色のスカーフを贈っていたのも、きちんと理由があったのだといまさら知って、己の無知を恥じる。他人が母親の古希を気にかけてくれていたとなると、なおさらだ。
「……紫のちゃんちゃんこ――」
「買ってきたら怒るわよ」
そう言う母親の声は笑いを含んでいた。
自分が買ってきた饅頭の包みを開けながら幸太郎は、『吾川』と母親の関係について取り留めなく考えていた。わざわざ母親から連絡を取り、滅多に着ない着物姿で出迎えた。しかも相手は、しっかり母親が古希であることを把握している。
何者かと聞いてみたいが、さきほど出くわした男の完璧な彫像のような姿を思い返すと、その質問をすることはためらわれる。思いがけず大きな波紋が自分の中で広がりそうな予感があるのだ。
事前連絡なしで総和会本部に立ち寄った賢吾がエレベーターを降りると、『吾川』は慌てた様子もなく、それどころか予期していたような表情で一礼した。
賢吾は、ここに来る途中に和菓子屋で買った箱入りの饅頭を差し出す。これは、と言いたげに首を傾げた吾川に、賢吾はニヤリと笑いかける。
「あんたの名前を使わせてもらった詫び……いや、礼だな。助かった」
古くから化け狐に仕えている男はそれだけで察したらしく、微笑を浮かべて受け取ってくれた。
「わたしの名前ということは、お母さまのところに?」
「どこで誰が聞いているかわからないからな。玄関先で長嶺だと名乗るのははばかられる。相手は非の打ちどころのない堅気だ」
自分で言って変な日本語だなと思い、賢吾は低く笑い声を洩らす。自然と並んで歩きながら吾川は口元を綻ばせた。
「機嫌がよろしいですね。久しぶりの対面は、悪いものではなかったようで」
「まあな。相手から会いたいと呼ばれたんだ。そう険悪なものにはならないと思ってはいたんだが――」
賢吾はしみじみと洩らす。
「長い年月で、人は変わるものだ」
守光はちょうど部屋で仕事をしているというので、遠慮なくズカズカと部屋に上がる。私室を覗くと、守光は座卓について何か書きものをしていた。
「――会ってきたか」
顔を上げないまま守光に問われ、賢吾は向かい側にどかっと腰を下ろす。
「ほぼ四十年ぶりだから、もっと他人という感じがするかと思ったが……、血の繋がりってのは存外、バカにできねーな。まあ、お袋のほうは、このでかい男は本当に自分の息子かと思ったかもな」
正直、いまさら会いたいと言われてもという気持ちは、心のどこかであった。それでも、わざわざ長嶺組の本宅に手紙を寄越してくれた勇気を無視はできない。賢吾は、母親からの手紙を持って守光に相談し、今日、子供のとき以来ぶりに対面を果たした。守光の側近中の側近である吾川にすら知らせなかった、長嶺の男二人での極秘計画だ。
「あんたのことだから、お袋の動向に目を配ってはいたんだろう?」
「大したことはしてない。ときどき、どうしているか探っていただけだ。元がつくとはいえ、うちの身内だった女だ。そのせいで理不尽な目に遭わせてしまったら申し訳ないからな」
「俺には教えてくれなかったな」
賢吾が恨みがましく呟くと、薄い笑みを向けられる。
「知りたければ、お前が自分で調べればよかっただろう」
「……そういう男だよ、あんたは」
ここで吾川がお茶を運んでくる。一緒に出されたのは、賢吾が買ってきた饅頭だった。吾川が退室するのを待って、がぶりと饅頭にかぶりつき、甘さに顔をしかめたあと、お茶を啜る。
「――俺の中じゃ、いつもキリッとした表情ばかりの印象があったが、今日会ったお袋は、コロコロとよく笑ってた。再婚相手を亡くしたとは聞いたが、幸せそうだった」
「そうか」
「異父弟(おとうと)にも会えた。帰るときに、ちらっと顔を合わせた程度だが。……お袋に似てなかったから、男親のほうに似たんだろう。異父妹(いもうと)も見てみたかったな。よくしゃべる双子だと言ってた」
もっぱら母親の話を聞くだけで、賢吾は自分の話はほとんどしなかった。息子がいると話したとき、一瞬悲しげに目が伏せられるのを目の当たりにしてしまうと、余計なことは言わないほうがいい気がしたのだ。
「もう、生きて会うのはこれで最後だろうな。お袋も、そんな話ぶりだった」
何もかもわかったふうに頷く守光に、賢吾はささやかに意趣返しをしてやりたくなる。
「お袋、あんたのことはまったく何も聞いてこなかったぜ。そりゃまあ、あんた嫌さで逃げたんだからな」
ニヤニヤする賢吾に対して、守光は呆れたようにため息をつく。
「お前……、いい歳をして、ガキみたいなことを……」
「おう、なんとでも言え。あんたの息子だからな」
守光は口元を緩めると、賢吾が買ってきた饅頭にかぶりついた。
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